2007年5月の日記 連絡先(e-mail)
2007年4月の日記

ガーナの記録は、更新頻度が少ないのでザンビア版とは日付が逆になっています

20070501 メイ・デイ
 5時起床、軽食を取ってからパルドリンを飲んだ。メイ・デイなのでガーナでは休日。涼しいうちに散歩しようと思っていたが、寝室の三つの高窓を、ポリ袋を開いて作ったシートで塞ぐ作業を始めた。これらの窓が寮の階段に面しているので、階段の掃き掃除を学生が始めると風向きによっては部屋中砂だらけになってしまうからだ。

 トイレ側の二つの窓はうまく封じられたが、勉強机から見て一番左側は気持ちよい風が吹き込むので開けたままにすることにした。砂が入れば掃除すればよい。

 カレッジの外周に沿って歩いてみた。他のクマシの場所と同じで、小規模な店がたくさんあった。ときどき動物を見かけるのがガーナらしいのか?
20070502 封筒は閉じないで郵便局へ
 サイエンス・ルームで何人かの先生と挨拶した。理科主任のフェリシアさんには4日から私用で出かけて5月15日に戻るので、その後授業ができるだろうと話した。彼女によるとその頃から2年生(1・2年生がカレッジで学び、3年生は教育実習に出る)が理科教材を使う授業をするので、それを担当して欲しいと言われた。

 実験室と倉庫を中から見ることができたが、ハマターン毎の埃で多くの機材は砂だらけだった。

 遅くなったが校長に挨拶。どうやら月曜日に打ち合わせがあったようだが、自分は欠席してしまった。挨拶が遅れたことをお詫びして、フェリシアさんとの打ち合わせのことを伝えた。校長に、紹介のために明日朝6時半からの集会へ出るように言われた。(毎朝6時半からGeneral assemblyが入っているが、必ず出なければいけないのだろうか?)

 タクシーで郵便局へ行った。窓口で封筒を渡すと、全部開封しろと言われた。折角封じてあったのに全部開封して渡すと、全て中身を出し、封筒には手を入れてチェックしていた。封筒はその後、幸い持っていたステイプラーで封じ直した。料金はどれも同じ重さの5通分で23万セディだった。それを支払ってから、切手を受け取って貼り付けた。料金が高額だったのは頼んでいないのに書留にされたからかもしれない。
 そういえば他のお客さんは、閉じていない封筒を持って並んでいた。

20070503 自己紹介
 4時半頃から起きて身支度。6時半前にホールに行き、学生のアセンブリーを見学した。旧約聖書の出エジプト記を学生が読みながら、それと自分の体験を結びつけた教訓を話していた。少ししてから校長がホールにいらっしゃった。校長は自分が校長室にまず来ると思っていて、オフィスで待っていてくれたようだ。

 ホールの壇上に上がって、校長の話の後、自己紹介をした。最初にザムコプターを飛ばしてから、J***の説明、自分のザンビアでの活動を説明し、ストローモデルを見せながら locally available の教材を紹介したいと話した。そして再びザムコプターを飛ばした。自分がガーナ建国の年に生まれたことも話した。ホールにいた1・2年生の反応はなかなかよかったと思う。

 自宅にストローモデルを置きに行ってから、マイケル先生の授業を見学した。英語が少し聞き取りにくかったが、酸と塩基の授業ということは分かった。

 午後、埃よけのポリエチレン袋とザンビアで愛用していた殺虫剤のターゲット、それとベビーシャンプーを買った。タウンの様子が少しずつ分かってきて、電動工具を販売している店も何件か見つけた。 帰ってからは、明日から出かけるためにシーツを洗濯したり、ポリエチレン袋を使って埃よけの準備をしたりした。

20070504 アクラへ移動、旅券受領
 私用で6日にザンビアへ向けて発つ。チケットは旅行社のヨシケンさんに発券してもらったが、旅券が手元に無い。ガーナでの就労ビザを取るために、アクラの外務省に提出してあったからだ。それでも、この週の初めにJ***事務所からビザが取れて、事務所で預かっていると連絡を受けた。6日に出国だが、今日中に事務所に行かないと、週末には旅券が受け取れないので、この日にアクラへ移動することにしていた。

 今日もアセンブリーを見学しようと部屋を出ようとしたら、玄関の鍵が壊れて開かない!そのため、締め切っていた裏口を開けて出て、バルコニーから飛び降りて(1mもありません)ホールへ行った。先生方は出席していなかったので、少し見学して部屋に戻った。玄関から入ろうとすると、今度は開いた。近いうちに自分で鍵を交換しなければならない。

 約2週間不在して15日に戻る予定なので、ポリエチレンの袋で家具類のカバーをする作業を終了させた。戻ってきて、家具や衣装箱などが砂だらけになっていなければラッキーだ。また、冷蔵庫に軟膏をしまっているのだが、計画転電後の電圧サージでサージ・プロテクタが破壊されるのを覚悟で冷蔵庫は通電したままにした。

 アコンさんが甥のマイケルのタクシーでSTCターミナルまで行けばよいといってくれたので、彼女のスポットまで行ったのだが、電話連絡をしても彼のタクシーは来なかった。そこで、しかたなく別のタクシーを拾ってターミナルへ行った。

 バスは9時半出発の定刻少し前に入って来た。今回は、払い戻し無し、チケットに書かれた席にそのまま着席した。前の席に座っていた中国人が窓を開けようとすると、職員に閉めるように静止された。どうやら初めての冷房車のようだった。バスが出発してクマシ市内の渋滞に捕まっている時に、運転手が立ち上がってバスの天井にある通風孔を開けようとした。お客さんから一斉に非難の声が上がり、私達は75000セディ払ったぞ!と連呼していた。運転手はその声で通風孔を閉め、冷房を強くした。これで、10000セディ払い戻された時は、冷房の効かないバス、75000セディの時は冷房車だということが分かった。

 アクラは相変わらずの渋滞だった。事務所に行って旅券を受け取った。ガーナのスタンダード・チャータード銀行の小切手がザンビアで使えるか質問したが、無理だろうという返答だった。ホテルは料金が高いがペンタ・ホテルにした。

20070506 20070507 ザンビア入国
 今回の旅行の目的は、ザンビア人のレイチェルとの婚姻証明書を取ることだ(協議離婚しました)。彼女にガーナまで来てもらって一緒に生活するには、ザンビアの婚姻証明書、レイチェルの身分証明書(旅券)及びそれらの邦訳を取得・準備し、それらを添えての日本大使館への婚姻届提出とレイチェルの健康診断合格が必要だ。これらの後、彼女を呼び寄せる申請書をガーナの事務所に提出することになる。ただし、ザンビア滞在は7日月曜の午後到着、13日の日曜日出国なので、月曜日の午後から金曜日までに全て修了させなければならない。事前にウェズリー・カレッジの校長には許可を得て出国したが、婚姻証明書取得まで通常21日、エクスプレスで5日かかると聞いていたので、このような短期間で目的が達成できるのか不安だらけで入国することになる。出たとこ勝負である。

 飛行機は23時発、ホテルは12時チェックアウトなので、12時にチェックアウトしてからしばらくロビーで涼み、TTご夫妻のセントラルホテルの部屋で待機させてもらうことにした。

 陽射しが強い日曜だったので、ご夫妻と外食するかホテルのキッチンで食事をつくるか悩んでいたが、結局、TTさんがアメリカで購入されたカップラーメンを前菜にして日本そばを中心の昼食をごちそうになった。

 3時すぎには、シャワーも使わせてださったので、薬もつけることができ、さらに今朝洗濯して生乾きだった衣類をアイロンがけして乾かすことまでお手伝いしてくださった。夕刻に、TCさんに電話してドミトリーへの配車をセントラルホテルに変更してもらった。

 飛行機のチェックインの時間はチケットの封筒に6時から9時と書かれていて、早すぎると思っていたが、念のため配車は7時半にしてもらってあった。7時半前にTCさんと息子さんがレセプションの所で待っていてくださった。また、お腹の調子が悪くなってきたと感じたので、一度、TTさんの部屋に戻りトイレを借りた。

 空港までは車で20分ほどだった。しかし、チェックインカウンターのあるホールが冷房で冷えるので、恥ずかしいことにもう一度トイレに行った。荷物はクマシを出たときから仕事鞄とリックサックだけにしておいたが、鞄にハサミなどを入れて、預けることにした。X線などのチェックもなく、シールだけを貼ってもらった。南ア航空へのチェックインは、全てTCさんがしてくださった。

 ボーディングパスを見ると、8時半に2番ゲートへ来る事と書いてあった。11時発なのに早いと思ったが、これも始めて出国に使う空港なので念のため(あくまでも念のため)にセキュリティー・チェックを通って、出国待合室へ進んだ。TCさんと息子さんとはそこでお別れした。途中、ガーナで始めてのエスカレーターを見た。

 8時半に2番ゲートへのドア前に行くと、その時刻は早すぎるので無視しろ、放送を聴いてから動けばよいと教えてくれた。

 ということで、ごく普通の時間にゲート前に移動し、テレビを見ながら待ち、搭乗した。アクラからヨハネスブルグまでエアバス340−200型で飛ぶのだが、ファーストクラス側のタラップには赤絨毯が敷いてあった。重要人物も同乗するようだった。

 機内は比較的すいていて、自分の席は中央列の一番後ろだった。三人がけの席の二つは空いていたのでラッキー。離陸後に食事があり、それを済ましてからは歯磨きをして席を3つ使って眠る事ができた。でも、眠れたのは3時間だけだった。約4300キロ離れたヨハネスまで、6時間の飛行なので、起こされるのも早かった。ヨハネス到着は6時50分予定だったが、アクラ時間では4時50分、その2時間前に照明がついたから、とても眠かった。

 ヨハネスでは、何の問題もなくトランジットの手続きができ、ルサカ行きの出発までのんびりと待った。

 ルサカ到着は出発が少し遅れたのでちょうど13時頃だった。飛行機から降りると涼しく乾燥した風がさわやかだった。

 イミグレーションは混雑していなかったが列が進むのが遅かった。オン・アライバルでビザを取り入国した。料金は25ドルだった。


 荷物の受け取り場所に両替所があったので、75ドルをとりあえずクワチャに換えた。税関を出て、まずセルテルのシム・カードとトーク・タイム(携帯電話料金のプリペイド・カード)を購入した。レイチェルに到着したことを連絡し、15時頃にJ***事務所で待ち合わせることにした。

 タクシーでJ***事務所まで移動した。途中ザンビア大学前のグレート・イースト通りには、去年の夏に来たとき工事中だった歩道橋が完成していた。ドライバーに聞くと8ヶ月かかったとか、大臣の親族の会社につくらせたとか、賄賂がひどいと話していた。

 事務所に到着して、まずIN所長に挨拶。今回の旅行の目的が、レイチェルと婚姻手続きを済ませ。彼女をガーナへ随伴家族として呼び寄せる準備を11日までにできるだけ進めたいと伝えた。事前に、ザンビアの日本大使館とやり取りをしていて、婚姻証明書の取得には最低でも5日かかるとか1ミリオン以上の費用が必要だとか聞いていたのだが、どうなるか分からない。また、彼女の健康診断を済ませてその結果を日本に送れるように準備したいともお話した。所長は、明日出国されて日本での所長会議に参加されるので、手伝うことがあればメモを残しておいてくださいと言ってくださった。

 事務所には、まだお顔の分かる方が何人もいて、挨拶するのが楽しかった。(しかし、異動された方も多く、今後も何人か異動されるそうだったので、もし3ヶ月ほど後に来ていたら、現地職員のザンビア人と調整員のHKさん以外顔馴染みの方はいなくなっていた)受付でいつもお世話になっていたおばさんに、ザンビアに来た目的を話して、婚姻証明書を滞在期間中に手に入れたいのだがと言うと、2階にいる現地職員のベロニカさんが力になってくれると教えてくれた。

 そこで、もう数ヶ月でフィジーに異動されるTHさん(ザンビア男性と結婚されていらっしゃる)にベロニカさんを紹介してもらうことにした。15時少し前にレイチェルが事務所に来てくれたので、二人で所長に挨拶し、今後の事、特に自分がガーナに13日に戻ってから以降に何かあったときにレイチェルを支援してくださるようにお願いした。


 ベロニカさん、THさんと私たちで明日からの予定を相談した。婚姻手続きができるルサカ市のシビック・センターにベロニカさんと明日10時に行く為に、9時半に私たちは事務所に来る事になった。

 事務所では健康管理員のASTさんからレイチェルの健康診断用尿容器などももらった。

 事務所を出て日本大使館に歩いて行った。セキュリティー・チェックを通り、携帯電話を預けてから、KR領事に挨拶し、今後の手続きの相談をした。領事は既に私たち用日本版婚姻届の下書きを作り上げてくれていた。自分達がその書類についてすればよかったのは、自分の署名と捺印だけだった。領事はレイチェルの旅券のコピーを取りたいと言われた。レイチェルは、まだ旅券に自分のサインをしていなかったことを大使館のザンビア職員に指摘されたので、その場で署名を書き加えてからコピーをとった。領事には、ザンビアの婚姻証明の写しと、その邦訳、及びレイチェルの旅券の邦訳を提出するように教えられた。

 大使館を出てから、事務所に鞄を取りに戻った。ちょうど事務所のPCで仕事をしようとして来ていた観光指導のOK隊員(ジャッキー)と会った。彼は流暢な現地語でレイチェルと挨拶していた。OK君に適当なホテルかロッジがないかと聞くと、いろいろ紹介してくれたが、J***事務所にも大使館にも歩いて行ける距離にあるのは、ロングエーカーズ・ロッジだけのようだった。ちょうど短距離無線の定時連絡があったので、チェックインさせてもらった。

 結局、歩いてロングエーカーズ・ロッジまで行き、部屋を取った。料金が前払いだったので、タクシーでマンダ・ヒルまで慌てて行って、スタンダード・チャータード銀行内にある24時間稼動しているATMでクワチャ引き出して支払った。とりあえず一泊分だけ支払い、土曜日夜までの料金は明日支払うと伝えた。

 部屋でレイチェルと打ちあわて、彼女の後見人に水曜日に会う約束をしてから、彼女は家に帰った。

 夜は、ロッジのバーで、モシとキャッスルを1本ずつ飲んだが、涼しいというより寒く感じるほどだった。食事は、ヨハネス到着前に機内で出された小さくて丸いパンを一個かじっただけにした。バスを使って、洗濯をして寝た。

20070508
 ロッジで朝食を取った。ザンビアにSVとして赴任されたばかりのICさんは、まだ同じロッジに滞在中だったので、朝食の時にご挨拶できた。

 9時半前に事務所に行き、ウェブで日本円の口座残高を調べたり、メイルをチェックしたりした。レイチェルが来てから、ベロニカさんの運転する事務所の車でシビック・センターへ移動した。混んでなければ、車なら事務所から5分ほどの距離だ。ビル内の出生・死亡・婚姻登録係の部屋へ行った。ベロニカさんが受付の方と交渉してくれたので、明日の14時にシビック・センター内の式場で本人と立会人が出席して式を挙げ、婚姻証明書を発行してもらえることになった。

 申請書はレイチェルがその場で記入してくれた。その書類を持って、料金を支払い。領収書のコピーと立会人の名前を入れて16時までに提出するように担当者に言われた。料金は通常21日以内の挙式で40万Kだが、平日で5日以内の挙式の場合100万K(三万円)。休日なら120万Kだ。その受付の部屋を出て、3人で支払い窓口に行き、100万Kを支払った。

 シビック・センター前でレイチェルと別れた。彼女は後見人のエリーナさんを呼びに行ってくれた。後で、エリーナさんと二人でJ***事務所に戻ってきてくれる約束をした。

 自分はマンダ・ヒルに行き、100万Kを引き出し、さらに100ドル札を両替した。100ドルで丁度40万Kほど、円が安いので日本円の口座から引き出すのはなかなか辛い。

 12時頃、J***事務所で待っていると、レイチェルが外に来ていると電話してくれた。事務所の玄関前でエリーナさんに挨拶した。Could I join your family? というのが、自分が用意していた最初の挨拶だった。

 そろそろシビック・センターが昼休みになるのではないかと心配していたが、ベロニカさん、エリーナさんと私達で再びシビック・センターの婚姻窓口の部屋まで行った。でも、部屋は閉まっていた。不安に思って立っていたら、係りの女性は少し外しているだけですぐ戻るからこちらの部屋で待っていてくださいと親切に声をかけてもらえた。

 しばらく待ってから、無事に書類を提出できた。この後は、明日の14時に来ればよいと説明された。そこで、明日13時にレイチェルとエリーナさんにJ***事務所に来てもらう約束をした。シビック・センターの外で、二人と別れた。ベロニカさんと事務所に戻ってからロッジへ歩いて行き、まず宿泊費の支払いを済ませることにした。虎の子の500ドルをロッジ内の両替所でクワチャに換えて支払った。こちらに到着してからあった隊員に聞くと、市中ではこのロッジのザンビア銀行の両替所のレートが一番有利らしい。

 夕方、レイチェルから電話がかかってきた。レイチェルの書いてくれた申請書に夫になる人の婚姻要件が独身ではなく、離婚と書いてあるので、それを証明する書類が必要だと婚姻係から電話があったというのだ。そこで、電話番号を聞いて係りの方に聞いてみると、戸籍謄本の英訳を作って、それを明日の式前に提出してくれればOKと言われた。

 夕食は、10月に帰国されるSVのHTさん、同じくSVのOKさん、それとICさんと自分の四人でザンベジ通りの中国飯店に行った。移動はICさんの車に乗せていただいた。マダムとマスターに挨拶した。少し多めに注文してしまった。

 ロッジに戻ってから翻訳の下書きを作った。

20070509
 ICさんと同席で朝を食べてから、身支度を済ませ9時頃に事務所に入った。1FのPCで戸籍謄本の英訳を仕上げた。印刷が終わるまで1時間半ほどかかった。翻訳ができてホッとしていたら、事務所の内線電話がベロニカさんからあって、Nakano san. Do you have rings? と言われてしまった。そこで、11時から慌ててマンダ・ヒルへ行き、指輪を買った。レイチェルに電話してサイズを聞いたら知らないと言われたので、自分の小指に入るくらいでよいだろうという見当で探すことにした。

 まず、100万Kを念のために降ろしてから。ゲームの指輪売り場で、銀の指輪を二つかったが、結局、レイチェル用は店員さんの指に合うサイズにしてもらった。出費は3000円ちょっとだった。

 13時にエリーナさんとレイチェルが事務所に来てくれた。14時少し前にシビック・センターに入ればよいので、待っている間に、レイチェルに随伴家族としてガーナに本呼寄せするために必要な健康診断の説明をした。木曜日に健康診断に行こうと話しておいた。レイチェルは、式の後、エリーナさんが自分と相談したいことがあると言った。(ドキドキ)

 14時少し前にベロニカさんの運転する車で自分達とエリーナさんが、自分側の立会人になってくれるTHさんご夫妻は、THさんの夫の運転する車でシビック・センターへ移動した。


 自分はまず、戸籍謄本とその英訳を係りの人に渡した。式場は、受付のある部屋と同じ階にあり、学校の教室ほどの広さだった。前方に大きめのテーブルがあり、その周りに司祭、立会人、新郎新婦用の席があった。その向かい側は、同席者用の椅子が占めていた。自分達は二番目に式を挙げることになったが、最初のカップルの式が始まるまでは式場内で待っていてくださいと言われた。

 最初の式が始まったので、廊下に出て待機。結局、14時45分頃まで待っていた。残念なことに仕事を一時抜けてきたベロニカさんは、事務所に帰られなければならなかった。

 自分達の順番になったので、入室すると司祭はコカコーラを飲んでいた。午前中からずっと会議だったので、まずコーラを飲ませてほしいと前置きしてから、席に着くように自分達と立会人をうながした。

 司祭から向かって左側に自分が、右側にレイチェルが着席した。自分側から見ると、花の飾られたテーブルの向かいに司祭が座り、自分の右に立会人のTHさん、左にレイチェル、そのさらに左にエリーナさんという順だった。THさんの夫は写真係を勤めてくれた。

 コーラを飲み終わった司祭は、自分に宗教を聞いた。信仰する宗教は無いと返答したが、貴方はバイブルをacceptできるかというので、大丈夫だと返答した。(お話の集まりと考えればなかなか面白いものだし)その後レイチェルにも同じ質問があり、彼女は、ローマンカトリックと答えた。

 司祭は、式に入る前に簡単な説明をしてくれたが、細かく覚えてはいない。ザンビアの法律では、離婚ができないとか、いくつかの心構えを言っていた気がする。

 式の最初に、自分だけが起立した。左手に申請書、右手にバイブルを持ち、バイブルの上に貼り付けてあった紙にあった文言を読み上げた。

 次に、司祭の話があり、これからの質問に全てイエスに答えるように指示された。まず、夫側に質問がいくつかあり、それに続いてレイチェルに質問があった。

 続けて、二人が立ち上がり向かい合って手を取り合いながら、司祭の言葉を復唱して宣誓した。その後は、自分がレイチェルの指にゆっくりと指輪をスライドさせながら、司祭の言葉を復唱した。同じようにレイチェルも行った。

 次は、二人で立ったまま向かい会い、夫が妻に司祭と立会人の前でキスするように言われた。両頬に1回ずつキスしたが、撮影用にもう一度繰り返させられた。

 その後、自分、レイチェル、エリーナさん、THさん、司祭の順で婚姻証明書に署名をした。証明書は原本のほかに副本を2部つくるのが、複写式ではなく、各自が3回ずつボールペンで署名した。

 署名が完了すると、自分とレイチェルは立ち上がって、司祭から証明書の原本を受け渡された。これで式は終了だった。THさんは、花束と記念品をレイチェルにプレゼントしてくださった。司祭も交えて記念写真をとって、緊張した時間が終わったが、正味20分ほどだったと思う。

 建物を出て、THさんの夫の運転でロッジへ移動した。自分とレイチェル、エリーナさんがそこで降りて、THご夫妻にお礼を伝えて別れた。

 ロッジの部屋では、エリーナさんに改めて自己紹介をし、ガーナの仕事の後は、まず日本の学校に戻らなければならないが、その後は可能な限り途上国、特にアフリカの理数科教育支援をすることが自分の夢だということを説明した。エリーナさんからは、本来は最初に相談することだったが、事前にそれができなかったので、と切り出されて結納金がどうなっているかと質問された。自分は、ザンビアの慣例が分らなかったので、こちらから金額を聞いて、相談した。その場で、すぐに金額の折り合いがつき、エリーナさんに金曜日の午後お金を渡すことになった。

 ザンビアに入国してATMで日本円口座からお金を降ろしてみると、ある金額を引き出した後は、ATMに引き出しを拒絶された。1日の引き出し額に上限があるのか、1台のATMから降ろす額に上限があるのか分らなかった。もし前者なら、レイチェルにすでに送金していたお金を取り崩さなければならないので、翌日には渡せないから金曜日ということにした。

 相談がまとまったので、エリーナさんとレイチェルは帰った。

 しばらくしてからJ***事務所に行くと、ルサカから300キロほど北にあるルアンシャで活動していらっしゃるSVのASさんとお会いした。よくザンビアで見るなと言われた。事務所の1階で電子辞書を引きながら、婚姻証明書の邦訳の下書きを作った。

 ロッジに戻ってから明日行こうと思っていたレイチェルの健康診断の予約の電話を入れようとした。でも、部屋中探しても健康管理のASTさんにもらった電話番号のメモが見つからない。そこで、ASTさんに電話をして、予約をお願いした。でも、ひっくり返した書類を元に戻していたら、最後にメモが見つかった。

 ASさんに夕食をご一緒しませんかと電話をした。でも、ASさんは買出しなどで猛烈に忙しいので今晩は無理だと返答された。そこで、ひとりで歩いて韓国料理店に行こうロッジを出た。100mも歩かないうちにASさんから電話があり、これから隊員連絡所を出る。今どこや?一緒に車で食べに行くからロッジに戻っといてくれ、と言われた。

 この晩は、ASさんとロッジから車で数分の韓国料理店(中国人の経営、日本食もあります)で夕食をとった。

20070510
 朝食後、ロッジで婚姻証明の邦訳を清書した。8時半にレイチェルとロッジ前で合流し、歩いていける距離にあるがタクシーを頼んでビクトリア病院に行った。

 10時半頃診断終了。料金を支払い、1週間後にASTさんに結果が届くと聞いた。

 結納金の準備のために、ドル口座から円口座へお金を移し、その円口座からATMでお金を引き出すので、レイチェルの口座は取り崩す必要が無い事を伝えた。

 健康診断の後、レイチェルと別れた、彼女は、自分が出国した後に妹がお金を使えるように自分の口座にあるお金を妹の口座に移しに行った。

 事務所のPCからインターネット・バンキングで、ドル口座からお金を円口座へ移した。その後、すぐにマンダ・ヒルに行って、お金を引き出した。前回と同じく、ある金額を超えると降ろせなくなった。

 お金をリックに入れたままタクシーで日本大使館に行った。KR領事に、婚姻証明の写しとその邦訳、レイチェルの旅券の邦訳を提出した。事務所のザンビア人スタッフのおかげで手続きが順調にすすんだことをお伝えした。

 この後、領事は日本との文書のやり取りをするのだそうで、3週間ほどで、自分の戸籍の欄外に今回の婚姻が加筆されるらしい。

 ロッジに歩いて戻って、書類の整理をして、再び事務所に行った。事務所でHTさんにお会いして、ザンビアの隊員誌のTiliche2号(We are OK という意味らしい)を2冊いただいた。1冊はガーナの隊員連絡所に置いてくださいと言われた。

 月曜にザンビアに入って、水曜には婚姻証明が取れたこと、また大使館への邦訳等の提出も済んだことを整理して日本にメイルを送った。また、ザンビア事務所関係者へのお礼や今後のレイチェルへのサポートのお願い書いた所長宛の手紙を作った。ベロニカさんの協力やエリーナさんの理解などがあり、本当にラッキーだったと思った。手紙は写しをいくつか作って、KB調整員に託し、所長がザンビアに戻られたら渡してくださるようにお願いした。

 HTさんにお願いしてアーケイドショッピングセンターに連れて行ってもらった。ガソリンスタンド脇にあるバークレー銀行のATMでクワチャを引き出した。ここでもある金額までしか引き出せなかったが、なんとか結納金の全額とレイチェルに残す当座のお金を準備することができた。どうやら同一の機械で連続して下ろせる額に上限があるようだ。

 アーケケイドのスパーでアクアビータとワインを買った。

 夜は、ICさん、HTさんと韓国料理に行って、キムチ鍋を食べた。ロッジから出かける前にお二人が短距離無線の定時連絡を聞いていたので、ICさんの無線機を借りてガーナに日曜に帰ることを報告させてもらった。レイチェルには、お金の準備ができたことをSMSで伝えた。

20070511
 まず、ロッジで今日の予定表を作った。

 9時前に事務所に行って、インターネットで口座残高を確認、メイルのチェックをした。母の日の贈り物をインターネットで購入した。式の写真を白黒で印刷して、現地スタッフに見せたらカラーで印刷できるから私のPCから印刷するといいと言ってくれた。厚かましく何枚かをカラーで印刷した。

 その後、2時間ほどかけてエリーナさん宛てのお礼の手紙を書いた。

 ロッジに戻って、出国時の空港使用料に必要な米ドルを買った。次にタクシーでアーケイドに行った。エリーナさんへの贈り物として挿絵の入ったファミリー・バイブルを買い、それ用の包み紙も買った。レンタルビデオ店の前を通ると、顔なじみだった店員さん(ジョアン)がいたので、挨拶した。彼女には息子が生まれたそうだ。

 この日はザンビア大学の一部の卒業式があったらしく、学帽をかぶりマントを誇らしげに羽織った卒業生達をアーケイド内でよく見かけた。

 ロッジに戻って、ファミリー・バイブルをラッピングしたり、エリーナさんとレイチェルに渡す写真と手紙の準備をしたりした。少し時間があったので、事務所で入国してからの記録を1日分だけ整理した。

 レイチェルとエリーナさんは16時に来てくれることになっていたが、レイチェルから友達の卒業式に出ているのでエリーナさんだけが先に行くと電話があった。

 エリーナさんは15時にはロッジ前に来てくれていたそうだ。

 16時にエリーナさんと部屋の前で挨拶し、まず結納金を渡してから手紙を読んでもらった。彼女は、手紙を読んで快くお金を受取る事を承諾してくれた。また、写真と贈り物も喜んでくれた。レイチェルが遅れていたので、エリーナさんだけで帰ることにした。大金を持っているので、心配だったが、いつも頼んでいるというタクシーを電話で呼ぶから大丈夫と言われた。やってきたタクシーには、小さい息子さんも乗っていて、家族で付き合っているタクシーなんだという印象を受けた。

 17時頃にレイチェルが来たので、エリーナさんに渡したお金や写真の説明などをした。彼女はカラーの写真を見たがったが、デジタルカメラの液晶画面で我慢してもらった。レイチェルは指輪がきついというので、明日新しいものを買うことにした。夕食前にレイチェルは帰った。

 マンダ・ヒルに行って、お金を下ろし、ひとりで中国飯店に行った。

20070512
 9時からスタディーグループにおじゃました。11時過ぎまで、ZMさん、MTさん、KEさん、SIさんの9名の子供たちが勉強したり遊んだりした。日本では小学校3年生に相当するMMちゃんとTK君に植物の種とモンシロチョウの変態の説明をした。KEさん以外は、数ヶ月のうちに日本に帰国されるそうだ。

 スタディーグループが終わってから、MTさんの車でアーケイドまで運んでもらった。アーケイドでジョアンに昨日撮った写真を渡し、明日ガーナに戻ると伝えた。

 アーケイドから歩いてマンダ・ヒルに行って、ゲームの装飾品コーナーで指輪の相談をした。親切にも以前買ったLサイズのひとつ上のMサイズの指輪を探してくれたが在庫がなかった。店員さんはマンダ・ヒル内の別の宝石店はサイズを広げるサービスをしてくれと教えてくれた。


 その店に行ってみると、指輪を大きくするには1週間必要と言われた。そこで、Mサイズの在庫がないか調べてもらったら、運良くひとつだけ在庫があったので、それを購入した。

 13時すぎに隊員連絡所(ドミトリー)行った。火曜日に、TJ隊員がマザブカから土曜日に上がってくると電話をもらっていたので、連絡所で会えるかもしれないと思ったからだ。結局、後になって同じ任地にいるSB隊員に聞くと、TJ君は病気で寝ていることがわかった。夕方、TJ君と電話で話したら、マラリアではないようで安心した。また会うチャンスはあるだろうから、無事に帰国するようにと話した。

 連絡所には、HTさんがいらっしゃったので、ドミトリーから数分のご自宅を見せていただくことにした。ルサカの都心からわずかに離れたHTさんのお宅は、フェンスに囲まれ、警備員がいて、立派なガレージにプール(月100ドル維持費がかかるから使っていない)があった。建物内部も広く、立派だった。日本茶をいただいた。

 HTさんにロッジまで送ってもらって、滞在中のお礼を述べた。

 夕方レイチェルが来てくれたので、新しい指輪を渡した。ルサカを出て、ガーナに着くまでの空港内での手続きや移動中のこまごました注意を説明した。レイチェルは、明日は見送りに来られないので、ガーナで、次に会えるねと言った。

 レイチェルが帰ってから、ICさんと韓国料理を食べに行った。モツ鍋を注文したが、内臓ではなく、豚肉と野菜の鍋だった。お腹いっぱい食べてしまった。

20070513
 朝食は、ロッジでのイベントの都合で庭に置かれたテーブルで食べた。ICさんと食べる最後の朝食だった。

 13時50分発の飛行機なので、10時半にタクシーを頼んでいた。

 10時少しすぎにチェックアウトするとHTさんが見送りに来てくれたので10時半までお話することができた。

 10時半に約束していたブライアンさんのタクシーが来てくれた。HTさんに重ねて御礼を行ってからロッジを出た。11時少し前に空港に入ったが、SA063便のチェックイン開始は12時からだと言われた。それでも、12時少し前にチェックインでき、出国手続きを済ませて出国ラウンジで待機した。

 ラウンジからエリーナさんとレイチェルにお礼と一時のお別れの電話をかけた。

 ヨハネスブルグ、アクラまで何の問題も無く移動できたが、アクラについた21時45分はザンビア時間では11時45分だったので眠かった。

 降雨の直後だったらしいアクラは思ったより暑くなかった。

 旅行社の迎えの車があったので、それに乗って10時半頃にITさんのホテルに移動した。ITご夫妻にザンビアでの報告をし、遅い夕食をご一緒した。シャンペンとビールをいただくこともできた。

 12時過ぎに、電話をしてペンタ・ホテルの部屋を確保した。ITご夫妻は、深夜にもかかわらず、ペンタ・ホテルまで送ってくださった。

20070514
 朝食前に、久しぶりにセディを降ろした。ホテルの支払いと当面の生活費だ。すぐにレセプションにいたモニカに支払いをして、領収書をもらった。

 9時前にJ***ガーナ事務所にタクシーで行って、レイチェル呼寄せの書類を提出した。担当のTH調整員は出張中だったので、別の方にお願いした。

 9時から15時45分まで一階のPCの前に座り続けて、ウェズリー・カレッジの校長宛の礼状を作成したり、ザンビア滞在中の記録を整理したり、授業案を作成したりした。記録は、原稿用紙で28枚ほどになった。

 その後、マラリア予防薬を追加で受け取り、ザンビアの隊員誌とザンビア隊員のポスターをドミトリーに残し、ホテルに戻った。

 明日は、クマシへバスで移動の予定。

 夕食は、IT氏(ご夫人が体調を崩されたそうだ)と中華料理のファースト・フードを食べた。

2007515
 5時に起きて、身支度をしてからシャープネットで、銀行口座の残高とメイルをチェックした。

 7時40分にタクシーでホテルを出た。9時発、8時がリポーティング・タイムというバスのチケットを持っていたので、8時前にSTCターミナルに着けばよいと思って出たのだが、渋滞で8時数分過ぎにターミナルに到着した。自分が最後の乗客だった。バスはその場で出発した。未だにレポーティング・タイムとデパーチャー・タイムの時間の違いが分からない。

 13時半頃にクマシに到着。13時50分頃にカレッジに入った。校長達は会議中だったが、15分ほど待っただけで終了したので、すぐに校長にお礼の手紙を渡し、ザンビアでの報告を簡単にした。また、今後の授業案の草案(まだまだです)のメモを渡した。校長も喜んでくれたようだ。

 コモン・ルームに理科主任のフェリシアさんがいたので、帰国報告をして、草案を渡した。カレッジは現在ライティング・テスト中で、18日までテストが続くそうだ。だから、少し授業の準備をする日がとれる。フェリシアさんに、部屋の掃除を始めたいからと断って退出した。

 自宅は、窓を閉められるだけ閉めて、家具類をポリエチレンで覆ってあったので、それほど汚れていなかった。ポリエチレンの上はうっすら砂埃がかぶっているだけだった。モップでそれらの埃を拭って、ポリエチレンはたたんで次の不在に備えることにした。

 それでも、午後いっぱい片付けと洗濯で終わった。ちょうど、12時間の停電中だったので、電気はなかった。冷蔵庫につながっているサージ・プロテクタは焼けきれていなかったので、軟膏が無事であることが分かった。冷蔵庫を開けて見ると、製氷室に入れてあった1.5リットルのミネラル・ウォーター3本はまだ全て凍っていて、庫内は十分に冷たかった。

 8000セディ(110円ほど)で夕食兼朝食を買った。ちょうど降雨が始まったので、傘をさして部屋に戻った。雨は激しくなり、しばらくすると数分間停電した。

 雨が、弱くなってからアコンさんのスポットに行った。



20070516
 コモン・ルームに掲示が無いか見に行った。テーブル上に All tutors will invigilate.(全教員は試験監督をすること)というメモがあった。まだ、仕事らしい仕事をしていないので、試験がどのように行われるか見学することにした。この日は、8時から10時までの試験と12時から14時までの試験が予定されていた。

 構内の大木の根元には合板が立てかけられていて、それに試験場の案内がチョークで書かれていた。12時過ぎにフェリシアさんが試験監督にやってきたので、見学させてもらった。自分は解答用紙の冊子を配った。表紙が諸注意になっていて、それ以外のページは罫線が引いてあるだけだ。フェリシアさんが続けて問題用紙を配布し、時間の指示をして試験が始まった。

 教室には、あらかじめ担当の教員が机の上に学生の写真入受験票を置いていたようだ。ラミネートされた定期券大の立派なものだった。試験時間は、学科によって多少違うらしかった。この試験場の科目はフランス語だったので、学生の解答しているようすを見ても何もわからなかった。フェリシアさんに断って退出し、別の試験場を見学した。

 理科の試験場を見ると、ほとんどの学生が何ページにも渡って、文章や表、化学式などを解答用紙に書き込んでいた。試験監督は、監督中に学生の鉛筆をけずったりもしていた。終了後に監督の教員に聞くと、手分けして採点するが2週間かかると言っていた。

 コモン・ルームにウェンディさんがいた。クマシ市内のいろいろなことを教えてくれた。3時半になったら空くから45分にリソース・センターで待ち合わせて市内を案内しようと言ってくれた。

 この日に見学したのは、ごみごみしていない果物と野菜のマーケット、清潔でそれほど高くないガーナ料理のお店、中華もインド料理もあるレストラン、日用品の買えるスーパー、インターネット・カフェ(スーパー・ネット)などだった。ネット・カフェ意外は、どれもスタンダード・チャータード銀行の近くにあった。グラウンド・フロアではないお店は紹介してもらわなければ分からないと思った。

 ウェンディさんは、7月3日に帰国するそうだ。ガーナ人のフィアンセとアメリカへ。

20070517・18 買出し


 タウンで買出しをした。53件の教材の材料をリストしたが、実際には70件は今すぐ必要になりそうだ。薬品はカレッジにもあるので最低限。また、他で代用できるものは慌てて買わない。でも、ザンビアの時と同じように、あるときに買わないと、当分手に入らないかもしれない。

 17日には、文房具店からスタートして、電動工具、プラスチックのケースなどを買った。ケースを買うときに、どうみても店員さんのいう金額がおかしいので、まずレシートを作ってくださいとお願いした。彼女の計算が心配だったので、電卓をたたくようすを見せてもらいながら、そこは×ではなくて+を押してくださいとお願いした。なんとか正規の料金になった。

 18日は、比較的涼しかったので歩いてタウンまで入った。薬品を買う店を探していたら、医療器具の店を偶然みつけたので、10mlと60mlのシリンジとガーゼを買った。外科用のハサミを見せてもらったが、動きが固すぎたので買わなかった。さらに釘やドリル・ビットを買ってから薬局に行った。店頭にはアルコールやクエン酸を置いていないのだが、店内の事務所に案内されると、自分のリストの薬品は全部あると言われた。価格はザンビアの時よりかなり安かった。準備をするのにしばらくかかると言われたので、支払いを済ませて後で取りに来ると伝えた。その後、スーパーを回ったり、バケツを買ったりして薬局へ戻り、タクシーを拾ってカレッジに戻った。

 コモン・ルームの掲示をチェックに行こうと構内を歩いていたらフェリシアさんに呼び止められた。来週の月曜からどうやら当面週1・2回だけだが授業ができるらしい。月曜は午後の1時間だけ。教材を使った授業であれば、何をやってもよいそうだ。

 買い物の後は、17日と18日も、洗濯と水浴びと掃除だった。17日には18時から12時間の停電があった。だんだん停電の周期が分かってきた。それでも、ウェンディさんに言わせると乾季には全く停電しなかったそうだ。

20070519
 朝の6時から12時間停電。午前中に追加の買出し。ハサミ、A4用紙、テスター、乾電池、それに私物。かなり重くなったのに、帰りになかなかタクシーが拾えずに困った。

 洗濯と水浴びをして、午後はほとんど休養した。停電で着るものにアイロンがかけられないのがちょっと困る。寝室(2部屋あるうちのベッドのある部屋)の扇風機は、風量調節が壊れてしまった。最高速でだけ回る。

20070520
 朝、クロロキンとパルドリンを飲む。昼からクマシのボランティアの方と食事の予定だった。それまでに空気の膨張の実験器を作り、ストローモデルの試作、輪ゴム鉄砲の試作をした。

 ところが、SVのKBさんから電話があり、マラリアの疑いで上京するから参加できないと言われた。また、二人の隊員は、一人の家に泥棒が入ったので、今日はだめ、電話の通じないHSさんは来るだろうとのことだった。

 HSは停電で携帯電話が充電できなかったが、幸い合流してカルチュラル・センター向かいのレストランで食事とお話をすることができた。HSと分かれてからは、歩いてカレッジに戻り、洗濯、水浴びをした。その後、エナメル線を買おうと思って、3週間前の日曜に散歩で見た発電機の修理屋まで歩いて行った。でも、店はしまっていて、近くで大型トラックの溶接している人に明日お出でと言われた。

 夜はアコンさんのスポットが閉まっていたので、初めてだがもっと近くのスポットに行った。ビールを1本だけ飲んだ。夜は読書と明日からの授業の準備を少しした。

2007521 大雨、最初の授業、銅線(エナメル線)確保

 朝から授業に使う道具をまとめて、12時10分からなのに、9時過ぎには教材などを指定された教室に運んだ。プラスチックのケースが大2個、小1個、カメラ・モデル、レインボウ・ボックス、水ロケット・セット、ストローに輪ゴムに空きペットボトル、それと薬品少々。頼まなくても、学生が手伝ってくれたのでうれしかった。

 実験室だったので、テーブルが大きく、イスも大きかった。学生が来る前にテーブルの整頓をしたが、無垢材と釘でできている90センチ×4mのテーブルはとても重かった。

 空が曇ってきたので、慌てて部屋に戻り、窓を閉め、傘をもって実験室に戻った。すると案の定、豪雨が来た。幸い停電にはならなかった。1時間ほどで降り止んだ。おかげで、最初の授業は涼しい部屋でできることになった。

 今日の最初の授業の学生は39名で1クラス、2年生の学年最後の数週間にTLM(Teaching and Learning Material)を教える時間を担当することになったのだ。7クラスあるので、当面週6回授業になる。

 簡単な自己紹介の後、メタノールの爆発、浮沈子、空気の膨張、カメラ・モデル、水ロケットの実演、ストローモデルの作り方の説明。ザンビアや日本での繰り返しだったが、無事終わったのでホッとした。

 ずっと理科主任のフェリシアさんも着いていてくれたので安心だった。彼女は、予定になかったのにこの後も続けて同じ授業をしてくれないかと言ったのだが、緊張が解けてホッとしている様子を見て、すぐ要望を取り下げてくれた。

 教材のほとんどは実験室に置いて一度部屋に戻った。窓は閉めておいたのだが、部屋中水浸しだったので、モップで水を吸い取った、この時になって、なんでガーナやザンビアの家の床が傾斜しているのかが分かった。玄関から水が流れ出すようになっているのだ(偶然かもしれないが)。

 掃除が終わったので、昨日の発電機修理店まで行った。涼しかったので歩くのも楽だった。店員はここでは販売していないが、エナメル線を売っている店を教えるから買いに行ってはと勧めてくれた。その場でタクシーを止めて、現地語で場所を説明してくれた。運転は荒いが歩行者には親切なドライバーは、目的地近くになると2度近くの人に場所を聞いてくれた。タクシーが待っていてくれることになったので、ドライバーと話をしていた人の案内で店を探した。幸い5分ほどで目的の店が見つかり、ついに(ガーナに着任してからずっと探していた)エナメル線を購入した。量り売りで5mm径のエナメル線が1kgで17万セディだった。

 ザンビアと連絡を取ると、レイチェルの健康診断には問題がなかったようだった。
20070522 火曜日
 昨晩6時からの計画停電は今朝の6時に終了した。今日は8時5分から1時間の授業。追加の実験サンプルを作るために、ドリルビットと食紅を持って7時過ぎに教室に行った。今日は、二年生の3組(S2G3)。学生達は、39名のはずだった。1時間目が体育だったため、学生達は体育着だったり、ワイシャツだったりいろいろだった。

 ほとんど昨日と同じメニューで説明したが、浮沈子やゴム栓の作り方を実演する時間を長くとった。質問もいろいろ出たので、ゆっくりと進めた。メタノールの爆発、浮沈子、空気の膨張、液体の膨張(容器はガラス製が良いことが分かったが、今日はペット・ボトル)、カメラ・モデル、それと水ロケットの実演(20m以上は上昇しました)だけにした。授業の後も、数人が質問に残ってくれた。

 部屋に戻って、水ロケットの代用品の実験をしてから、少し昼寝。その後、タウンへ行こうと構内を通って正門へ出た。途中で幼稚園の帰りの子供達にオブロニ、オブロニ(白い人)と言われて、みんなと握手した。いつもオブロニと呼ばれるけれども、みんな親しみを込めて呼び掛けてくれるのがとてもうれしい。

 タクシーでタウンに着いたが、どうしても見つけたい直径約6mmのフレキシブル・ストローは今日も見つからなかった。でも、マルチャンのラーメンを買ったからよしとしよう。

20070523 水曜日

 昨日の夕食時から体がだるく、気持ちが悪かった。朝になっても晴れ晴れしなかったが、体温は36.3℃の平熱だった。

 7時頃にコモン・ルームに行って、掲示を見たり作業をしたりしていたら、校長が新しい副校長を連れて入ってきたので挨拶した。

 今日は12時過ぎから1時間の授業だった。まず、部屋でクエン酸と重曹と水を混合して飛ばすロケットの試作を考えた。10時頃に教室に行って、その試作品を飛ばしたり、ゴムぞうりからゴム栓を作ったりした。

 授業は、昨日とほぼ同じだったが、日本と同じでクラスによって集中度に差があることが分かった。今日のクラス2年4組は、ちょっと集中力が足りない。それでも、カメラ・モデルも水ロケットも楽しんでくれた。

 2時過ぎから臨時職員会議、OPTDの件(よく分かりませんでした)と学生による教員評価の説明が中心だった。後者には沢山質問が出た。最後に7月3日に帰国するウェンディさんが集合写真を撮りたいというので、アドミニストレーションの建物の中庭で写真を撮った。彼女のフィアンセがカメラを借りてきてくれたのだが、性能が不安なので、自分のカメラで撮影した。画質を最高に上げて撮影したのは、一昨年の秋に800万画素のこのカメラを買って以来始めてのことだった。

 撮影後、ウェンディさんと雑談しながら、ドミトリーに戻った。今日の会議はチンプンカンプンだったと言うと、彼女も約1年前の着任時には同じだったと話してくれた。

 その後、カメラのデータをCDに焼いて、ウェンディさんに渡した。

 夕方には、体調は回復した。ところで、明日からは4連休のようだ。

20070524・25 ジョン・ウェスリーの日とアフリカ自由の日
 6時頃に構内を散歩していたら、アドミニの建物では集会の準備をしていた、7時開始だと学生が言うのでその時刻に行ってみた。でも、当分開始されないようなので、PC室で自分のコンピュータをつないでみた。

 ネットワークの設定が分かるまで時間がかかったが、IPアドレス、DNSなどをなんとか入力して無事ウェブにアクセスできた。久しぶりに日本語でメイルの送受信ができた。

 8時半頃から歌声が聞こえて、集会が始まった。このカレッジがウェズリーというのは、1729年に英国でウェスリーが始めたメソジスト運動が起源だということを辞書で理解した。後に英国国教会から分かれることになったメソジスト派を作ったジョン・ウェスリーの名前にちなんだカレッジだということがやっと今日になって分かった。  副校長の挨拶や聖職者によるウェスリーの業績の説明、寄付、歌・踊りを見学した。

 集会の後、タウンに買い物に出かけたが授業に必要なものはほとんど買えなかった。昼食は日曜日に行ったレストランで取った。昨晩から下痢が続いていたが、昼前にはおさまった。

 夕方からは停電、でも6時間ほどで復旧した。予定の計画停電は明日の夜のはずだ。

 25日のアフリカ自由の日は、ほとんど部屋から出ずにPC作業をした。何回もやり直したが、エイサーのラップ・トップに英語版のXPをインストールできた。これで(もし)レイチェルが来たらPCの作業に困らないと思う。バック・アップをとったり、予備機であるHPのPCにプリンタのドライバを導入したりした。

 いつかやろうとしていた作業だったが、なんとか終わってホッとした。でも、扇風機の風量調節ができないのは本当に困る。小さいものを自分で買った方が手っ取り早いかな。

20070526・27 土曜日と日曜日

 土曜日は7時半頃に部屋を出てタウンに向かった。授業に必要な品物を取り揃えるための最後の日にするつもりだったからだ。買ったのは、過酸化水素水(カレッジにもストックがあるが、状態が分からないため)、ついに見つけた黒い画用紙、CD−R、木工用ボンド、合成ゴム系接着剤(これまではコンタクトを使っていたがこちらには見つからなかった、ブランド名は99でイタリア製)、木ねじ(当地には今のところマイナスしかない)、絶縁テープ、釣り糸、ストロー1000本と風船10個、電線少々だった。

 本当にやっと見つけた物もあったので歩き回った甲斐があったと思う。個人用に文房具とお酒、それとプロパンガス着火用の圧電素子(店によって2万セディから3万セディまで値段の差があった)も購入した。

 11時過ぎにタクシーでカレッジに戻って洗濯と水浴びをし、午後は休養した。

 夕方、アクラのIT氏から電話があり、KB氏がマラリアから回復してクマシに戻られたと伝えられた。KB氏に電話してみると声に張りがありとてもお元気なようすだった。

 日曜日は少し寝冷えしたようで、午前中いっぱい腹痛で困った。しかも停電だったの扇風機は使えないのにだんだん暑くなってきた。

 明日の授業の準備のために、ストロー・モデルを工夫したりして時間をつぶした。

 お腹が落ち着いたころ、近所のお店でタイ米を買った。1合弱を炊いたら15分ほどで食べられるものができた。Geishaブランドの鰯のトマトソース漬けと一緒に食べたら元気になった気がした。パーム油(ココナッツ油)が多いテイク・アウェイはしばらくお休みすると良いのかもしれない。でも、おかずになるものが作れない。

 4時少し前から暗くなり、強風が吹き始めた。室内でも温度が24℃ほどまで急に下がり降雨があった。15分ほどで弱くなり、土砂降りとはならなかったが、涼しくなったので助かった。ただし、降り始めに埃が舞い上がって部屋に入ってくるので、床のモップがけが必要だ。

20070528 なぜかワークショップ

 6時までに朝食を済ませて、パルドリンを飲んだ。パルドリンを飲むために食事をしている感じもする。

 12時過ぎから授業がふたコマある予定だったので、準備をして、材料を持ってまず教室へ移動。学生が部屋を出たところですぐに手伝ってくれた。ケネディ(まだ名前がよく分からない)先生が実験室を開けてくれたが、今日からワークショップがあるから、参加することになるだろうと行っていた。

 8時から1時間ほどウェブに自分のPCをつないだ。エイサーのマシンだけだったが、ウイルスソフトの更新ができたので一安心できた。メイルもチェックできた。

 9時過ぎから実験室で準備をしていると、10時頃に本校だけでなく他校の理科・数学の先生達がぞろぞろ入って来た。予定表を見せてもらうと、今朝から金曜日の夕方まで理数科の先生はずっとワークショップだそうだ。自分の使う予定の離れになっている実験室は生物の会場、準備室と実験室のある別棟は化学、他は図書館を使うことになった。

 そういうことで、今週は授業は無し、先週のうちに予定を知っていればよかったのだが。

 生物の分科会に参加していると、今日は体細胞分裂の教案に関する話し合いだった。先生方にパタパタ細胞分裂を紹介したり、フェリシア先生とストローで分裂中の染色体モデルを作ったり、頼まれてPCで分裂の動画を見せたりした。

 先生方は分裂の標本(準備室に幸い保存されていた)を見たことがなかったようなので、準備室で埃をかぶっていた顕微鏡を三台整備してみた。一番の問題は接眼レンズのカビによる腐食だった。濃い水酸化ナトリウム水溶液を作って、分解したレンズを10分ほど浸しておいたらイギリス製の顕微鏡はなんとか見えるようになった。しかし、もう一台は明日再調整することにした。

20070529

 朝、シャワー室の電球が切れた。今日から着任後3ヶ月目に入った。

 8時前に追加の教材を学生に手伝ってもらって運んだ。でも、部屋が開いたのは8時15分だった。昨日の続きの発表があり、その後は新しい課題でのワークショップが続いた。ファシリテイターと雑談しながら、教材の準備を続けた。明日は生物分科会ではウサギの解剖の予定らしい。明後日の木曜に化学分科会対象に、そして金曜に物理分科会対象に2時間ほどのプレゼンテーションができることになった。

 結局生物分科会の話し合いを聞きながら作業をした。でも、発表したいことの半分も準備できなかった。まだ着任して2月というのが難しさの原因かもしれない。NSCのオフィスや学校の準備津と工具を丸ごと持って来れていたら、違う状況なのかもしれないが。

 顕微鏡の接眼レンズは同じ方法では修復できなかった。表面を物理的に磨かなければならないようだ。

 夕食は、ワークショップ参加者と同じものをダイニングで貰った。うーん、ガーナ風の焼き飯ではないか。

 夜の6時から計画停電のはずだったが、停電は8時から始まった。担当者が切り替えるのを忘れたのかしら。

20070530 ウサギの解剖

 午前中、生物分科会の先生達は、ウサギが来るのを待っている間のんびり昨日までのまとめをしていた。昼食前にちょっとだけグループ毎の発表があった。こちらは、ひたすら教材づくりを横でしていた。

 午後は、ウサギの解剖。きれいな毛並みのオスだった。クロロフォルムで麻酔をしたが、その時に完全に呼吸が止まっていたから死んでしまったと思う。解体して心臓を見たとき動いていたのはその自動性のためだろう。自分はもっぱら見学(解剖バサミとか消毒用アルコールは提供したけど)して、血液の標本を作って先生方に見せたぐらいだった。

 昼と夜は食堂で食べたが、すごい量だったのでお腹が一杯になってしまった。昼に食堂まで乗せてもらったピックアップには、古いJ***のシールが貼ってあった。そういえば3ヶ月半日本で研修して日本語で挨拶してくれる先生が一人いらっしゃった。主催者に聞くと、この研修会には15の教員養成大学から参加しているそうだ。

 夜は12時から起き出して3時半まで発表の準備をした。どうも今ある材料だけでは電池ケースができない。

20070531

 早朝に30の実験リストを作ったり、ストロー分子モデルのサンプルを少々作ったりしてから実験室に行った。

 最初は物理教員対象に2時間、その後化学と生物教員対象に2時間の実験紹介を行う予定だったが、会場の移動にともなう教材の運搬や、同じ実験を2回紹介する手間を考えて、ファシリテイターに合同でやらせて欲しいとお願いした。

 快く理科の参加者を全部集めてくれたので、8時半過ぎから11時半まで実験などを紹介した。

 非常に単純な、ビュンビュンゴマや糸電話(釣り糸を導線にして約30m)などから、水の合成、二酸化炭素ロケットなどインパクトのあるものまで様々な実験を実演することができた。

 暑さや準備の手間、それに本番の緊張があったためかなり疲れてしまった。それでも、クマシに戻ってからたった17日目に、これだけの実験を準備できたこと、そして今回の派遣中にそれらを伝えたい先生達に紹介できたことはとてもうれしかった。実験はまだ追加できるし、工夫できることも多いので今後も改良したい。でも、こうした実験を先生方に身に着けてもらうには少なくとも1週間の研修が必要ではないかと繰り返し思った。

 午後は、後片付けを続けながら、ウサギの骨格標本づくりを見学した。

 夜には、参加者に実費で配布する教材CDのコピーを作った。でも、途中で眠くて寝てしまった。

20070601 研修会修了 ドラムとダンス

 7時半からの朝食で、パンと紅茶、それにポリッジ(お粥みたいなもの)に砂糖をかけて食べた。昨日、生物室用のカギをもらったので、安心してラボへ行けた。今日は物理分科会のサーキット・ボード作りを助言してほしいと言われていたので、物理図説と日本の中学指導書、工具それに頼まれていたアルミホイルを持って会場の図書室へ行った。初めて入った図書室、蔵書の数はそれほどではないが、比較的良く整備されているし、「細胞の分子生物学」にいたってはハード・カバー版が置かれていたので感心した。

 まずは、コードを剥いたり、ボードを作る作業を一緒にしたりして楽しかった。でもその後は、10時半頃から生物・化学分科会と合同でケイプ・コースト大学からの出席者(チーフ・エグザミナー?)を図書室に招いて、教育カレッジ(教員養成カレッジという名称が2004/2005からCollege of educationに変更されたそうだ)における日常のテストについての話し合いになった。小問と論文形式の問題の比率とか、選択問題は出さないとか、2単位ならテストは何時間、3単位なら何時間とか、いろいろ討議していたが、細かいところは分からなかった。

 討議の後、今回のファシリテイターの中心であったギデオン氏(イスラエルの士師;ミデアン人の征服者という凄い名前、教育省の Teacher Education 部門でAsistant director をしていてJ***関係の仕事にも関わっているらしい)と少し情報交換した。以前から思っているように、最低でも1週間の集中トレーニングを研修参加者に行わなければ、参加者は自分で教材を作れるようにはならないだろうと繰り返して話した。

 機会があれば、ギデオン氏からまた研修会へ招いてくれるそうだ。次回は今回のように15大学だけでなく、全38教育カレッジからの参加者が集まるかもしれない。

 他の2・3のカレッジの先生方からも研修に来てくれないかと誘われたのはとてもうれしかった。ザンビアから戻って3週間たたない間に、このような言葉をかけてもらえたことは繰り返してうれしく感じた。

 昼食のとき、ウェズリー・カレッジ側からの挨拶があり研修会は無事修了した。

 洗濯と水浴びのために部屋に戻ったら、室温は35℃を指していた。暑いはずだ。3時半からCultgural Drumming and Dancing の発表会があるので、その時間まで少し休んだ。


 アドミニの建物の中庭が会場だった。少し遅れて4時過ぎから発表が始まった。最初にお祈り、校長の挨拶、審査員の紹介があった。男子寮(それぞれのハウスに名前がついている)と女子寮が一つずつペアを作り、4つのハウスのペアが2種類ずつのダンスを演じた。若い学生の疲れを知らない踊り・歌・演奏を堪能できた。そのなかでも一番大きな声が出ていたのは、優勝ペアの発表のときだった。優勝した学生達は、踊ったり・歌ったりしながら構内を練り歩いていた。

 発表会の後、部屋に戻ろうと歩いていると、ガーナ人から日本語で呼びかけられた。自分の住んでいる寮の隣にある先生の家からだった。その先生の弟さんで、日本に11年滞在したことのあるガーナの男性だった。クマシのカレッジの近くに家があるそうだ。アクラにも家があるが人に貸しているらしい。また東京にも自宅があるとか。現在は、日本から中古品を輸入して販売しているそうだ。お兄さん(最優秀教員賞を受賞したことがある。賞品の自動車の側面には最優秀教員と大きくペイントされている)も彼もいろいろと相談にのってくれると言っていた。

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