2007年3月と4月の日記 連絡先(e-mail)
2006年3月の日記

ガーナの記録は、更新頻度が少ないのでザンビア版とは日付が逆になっています

20070327 出国とトランジット
  5時起床、7時半に五月台発、父が同行してくれた。日暮里でスカイライナーのチケットが自販機から出てこないトラブル発生。結局チケットは車内で購入した。成田には10時前の到着、すぐに宅配便の荷物を5個受け取って、日航にチェックインした。旅行社の方と待ち合わせて、同行してチェックインの予定だったが、予定の30分以上前に着いたので、自分で済ませた。預ける荷物が40キロまでだったが、秤は41キロを指してしまった。それでも、規定内ですね、誤差がありますからと係りの女性が言ってくれて助かった。(事前に何回も体重計で量ったのが報われてよかった)

 窓口では、フランクフルトでの乗り継ぎが24時間以内なので、荷物を預けたままにできますと言われた。旅行社からはJ***からの指示で、フランクフルトで荷物を出して、次の日に再び預けるように指示されていた。窓口の方にその事情を話すと、電話で預けたままにできることを確認してくれた。その結果、安心してスルーでガーナまで荷物を運んでもらうことになった。(髭剃りをスーツケースに入れたままだったのでガーナまで髭が剃れなかったが)

 チェックインの後、旅行社の方と同じ便で赴任するSVのIT夫妻ご一家と挨拶をした。

 追加で少し円をドルに換金して出国手続きへ移動した。手荷物から、液体・ジェルの用の透明バックと、PCを出してセキュリティチェックを受け、イミグレーションを通って、搭乗口側へ移動。しばらくラウンジで時間をつぶした。

 日航機は定刻に離陸、フランクフルトまでもほぼ定刻どおりだった。

 IT夫妻は海外勤務が長くフランクフルト空港もよく知っていらっしゃったから、教えてもらう通りに移動して、トランジットで一泊するためのシェラトンホテルに入った。自分とIT夫妻のチェックインが終わってから確認しあうと、IT氏は夕食と朝食のバウチャーを受け取っていなかった。かなり高額の夕食券、朝食券だったので、IT氏は再び列にならんで交渉、無事バウチャーを手にした。

 夕食は、ソーセージの盛り合わせに、酢漬けキャベツとポテト、それにドイツビールをご夫妻と食べた。時差がきつく、眠かった。フランクフルトでは、日本マイナス8時間。

20070328 ガーナ入国

 IT夫妻とは、9時にフルトハンザのチェックインカウンターで待ち合わせとしていた。ビュフェの朝食をすませ、チェックインカウンターを探しに8時過ぎにチェックアウトした。案内板を見ながら、空港内を移動して、73番に窓口が乗り継ぎだよと教えてもらった。

 チェックインが終わってしばらくするとIT夫妻も無事到着した。全員の手続きがすんだので、成田と同じようにセキュリティチェックに行列した。ここでは、PCはバッグから出さなくてすんだ。

 11時10分発のルフトハンザ、搭乗開始10時25分だったが、その前に搭乗の待機室へ入るチェックインがあった。大き目の手荷物を持っていた人は、追加で預けるように指示されていたが、追加料金は請求されていなかった。(なんて太っ腹な航空会社)機内には、アフリカ人が多く、アフリカへ戻れる!とちょっと興奮した。

 4人がけの通路側の席に座ったが、隣の青年は、その隣の赤ちゃんを連れた婦人にスペースを与えるために席を移動した。フランクフルトからナイジェリアのラゴスに着くまでに、ちょっとだけ赤ちゃんの世話の手伝いをした。(ミルクをつくる手伝いくらいでした)

 ラゴス定刻着、給油後、約40分の飛行でアクラ到着だった。タラップを降りて、バス(ザンビアでは徒歩だった)に乗って空港ビルへ、イミグレーションを抜けると調整員のSMさんが待っていてくださった。その場で100ドルを両替(約90万セディになった)し、荷物が出てくるのをまった。

 自分の荷物5個と、I夫妻の全ての荷物が無事到着した。昨日新隊員が23名着任したそうだが、そのときにも全ての荷物が滞りなく出たそうだ。(うれしい方のびっくり)

 J***事務所のドライバーの運転で、アクラ市内のオス(OSU)地区にあるペンタ・ホテルに移動した。TK調整員も動向してくださった。

 荷物を部屋に入れて、貴重品をスーツケースに移し鍵をかけてから、調整員のみなさん、IT夫妻、同じホテルに滞在中で4月2日に任期を終えて帰国されるNGSVと食事に出かけた。歩いて直ぐの中華料理店シスター・オブ・ザ・イーストに入った。TK調整員、NK調整員、TK健康管理員、SZシニア隊員、も相次いで円卓に加わった。

 夕食のメインはこのお店の名物?らしい鍋だった。シャブシャブの容器に似た金属製の鍋の真ん中にある筒状の部分に炭を入れて、周囲を加熱し続けるしかけだった。野菜を多めに食べたい隊員がよく利用するそうだ。注文したスタービールの瓶が大きく薄い緑色だったのがおもしろかった。

 空港からホテルに入るまでに見た人々の外形と物腰が前任地にそっくりだった。停電が多いので、信号が消えるときには、警察官が立つそうだ、車が右側通行で、ヨーロッパ車が多い。もちろん日本車もあるが、どれも左ハンドルだ。

 自分は、アフリカに戻ってきてちょっとハイになっていた。気をつけよう。

20070329 着任研修開始
事務所のあるビル 帰国前の活動報告
表敬訪問後の記念写真 予防注射をした清潔な病院

 朝、SM調整員がホテルまで自家用車で迎えに来てくれた。TK調整員はご夫妻で、ホテルへいらっしゃり挨拶してくれた。

 オペイビアハウスという当地ではどのタクシー運転手も知っているらしい建物の近くにあるJ***へ入り、所員への挨拶、所長との面談を済ませた。その後は、諸手続きと帰国隊員の報告会に参加。

 ガーナ風の赤飯を事務所脇の食堂?で食べた後、午後からはボランティアを受け入れているガーナ側の窓口である財務省を表敬訪問し、夕刻に髄膜炎の予防接種を受けた。

 手続きでは、スタンダード・チャータード銀行の口座開設、労働許可書用の申請書、ガーナ外務省発行の身分証明書申請書、日本大使館への在留届け、在外選挙の手続き、ガーナ運転免許申請書を作らなくてはならなかったが、この日には全く進まなかった。

 夕食は、IT夫妻と中華料理店に行った。

20070330 着任研修二日目
 8時半にペンタ・ホテルを出てIT夫妻と一緒にタクシーを拾い、J事務所へ向かった。まず、ガーナにおけるJ***活動の概要の講義を受けてから、健康管理などの説明があった。

 昨日渡された書類を仕上げるために、講義中は少し内職。これらの書類の準備が済まないと落ち着かなかった。昨晩中から今朝にかけて仕上げようとしても、なかなか作業できなかったからだ。IT氏も同じだったようで、SM調整員に時間調整をお願いして、ご夫妻も書類を仕上げてしまうことにした。1時間ほどかけてすべて修了するとほっとしていらっしゃった。

 昼食は、イタリアン?事務所から徒歩で数分の大きめの東屋風料理店だった。注文を済ませた頃に、空が曇りだし、風が強くなって、少しだけシャワーがあった。

 午後は、現地職員でガーナ人のKM氏(クマさんと呼ばれていらっしゃるとか)から国情の説明を受けた。近年、ひったくりなどの犯罪が増加しているか、以前はとても安全でフレンドリーな国だったそうだ。今でも、もちろん安全だが、犯罪に巻き込まれないようにいくつかの注意があった。友人を選ぶこと、車と対向するように道を歩くこと、銀行から出たらつけられていないかチェックすることなど。

 今日のレクチャが終わってから、ガーナの日本語補習校の様子を少しお聞きした。首都のアクラには、文部科学省に認定された補習校があり、土曜日の9時半から12時半まで授業をしているとのことだった。任地はアクラから離れているが、少しお手伝いできるとうれしい。関係者にザンビアのスタディー・グループのことを少しお伝えした。

 夜は、ホテル近くのスーパーをチェック、店名はコアラ、経営はレバノン人?。それと、インターネット・カフェも試した。シャープネットという40台ほどのPCがあるお店だったが、ほぼ満員だったので、I氏が試してみると、遅かった!。自分も少しだけメイルをチェックした。日本語が表示できるマシンだったが、IMEは無いので、日本語入力はだめだった。

 夕食は、ご夫妻とともに水曜日に開店したばかりのアフリカ料理店。でも、食べたのは前菜と大きなピザだけだった。

20070331 初めての土曜日 K氏と会食
 8時少し前にホテルから歩いて5分ほどのインターネットカフェ(シャープネット)に行った。混在していなかったので、少しアクセスが早かった。ローマ字は英文でメイルに少しだけ返信できた。

 コアラと、別の小さなスーパーで買い物、ストロー、お水、コルゲートなど。ホテルに荷物を置いてから、紙やアルコールを探しに出かけたが、歩いて回れる範囲では消毒用アルコールしか買えなかった。それも、これで眼鏡を拭けたり消毒ができたりするので一安心。

 昼は中華料理のシスターへ。

 午睡をしていたら、NGさんから電話。SVのKBさんがクマシからアクラにいらっしゃるのでお会いしませんかということだった。KBさんは電子工学をポリテクニック(高等職業訓練校)で指導中。明日から日本に一ヶ月ほど帰国されるので、アクラに移動していらっしゃったそうだ。夕刻にKBさん、NGさん、IT夫妻とともに、夕食をとり情報交換をした。

20070401
 ホテルで朝食をとってから、少し散歩のつもりで出かけたら、日差しは弱くとも蒸し暑かった。コアラはしまっていたので、クウィックというホテルの向かいにある小さなスーパーに入って、プラスチックのカップ(ザムコプターが作れるか調べるため)、竹串、水、ワインを買った。ワインは1瓶で400円、シャルドネと書いてあった。

 昼食は、中華料理のシスターへ行ったが、停電のため冷房は無し。一番涼しい席をくれというと、網戸の直ぐ脇の椅子を指してくれた。窓の外では日陰で男性が寝ていた。

 油揚げと野菜の炒め物にごはんを注文したら、ごはんは無いので、チャーハンに代えてくれと言われた。食べきれないほど出てきたので、あまりは包んでもらった。

 ホテルに戻って少しワインを飲んでから、横になった。

20070402
 昨日は、昼寝のつもりでベッドに入って、そのまま何回か目を覚ましたものの朝まで寝ていた。夜半には強い雨があり、3時頃からいつもの雄鶏が1時間おきに時を告げていた。

 5時から、洗濯・シャワーを済ませて、PCに記録を打ち込んだ。ガーナ放送を聞いていたら昨晩の4時間ほどの豪雨でアクラ市内では冠水したところもあったそうだ。本格的な雨季は5月からだと聞いているが、雨季には同じようなトラブルが頻発するのではないか?

 今日の主な研修は、TK健康管理員からの健康管理(これは新着隊員と一緒)、SZシニア隊員から理数科教育事情、SM調整員からSVガーナハンドブックに沿ったオリエンテーションだった。日本大使館への表敬訪問が予定されていたが、急に翌日に変更になった。

 理数科教育事情は、SZ氏がとても分かり易くまとめてくださっていたので感心した。また、任地のウェズリー・カレッジの宿舎の写真も見ることができた。大学側では、期待しているようだが、無理せず様子を見ながら活動しようと考えている。

 夕方、IT夫妻のクウィックでの買い物に付き合い、その後シスターで魚料理(Whole fish だったので大きかった!)、揚げ餃子、細切牛肉と野菜の炒め物、白いご飯を食べた。

20070403 表敬訪問
 事務所に入り、9時半に日本大使館に向けて出発、調整員のSMさんに、短期の調整員でいらっしゃったSJさん、それと北部のタマレに新しく開設されるJ***の拠点で活動される○○さん、IT夫妻と自分で全員だった。

 大使館内で少し待った後、大使と面会、しばらくガーナ国情についてお話を伺った。

 昼食は、ライスにオクラとモロヘイヤのスープをかけて、チキンをつけたもの、ソフトドリンク付きで1.5万セディだった。

 午後、IT氏が所属省庁の表敬訪問に出かけている間に、ストローモデルを作って、事務所のガーナ人スタッフに紹介した。3時半からはTH調整員による会計処理の説明、概要は前任地と同じだが、四半期ごとに概算払いしてもらえること、消耗品類は見積もり不要、VAT免除レター不要ということだった。業務に使う雑費が税金分安くはならないが、購入までに時間がかからないので安心した。

 夕刻、IT氏配属先のランドクルーザで、配属先が提供してくれるIT氏の自宅の下見に動向した。

 夕食は、ガーナ料理レストラン、IT夫人は体調を崩していらっしゃるのでお水だけだった。内容的には昼食とそうかわらなかったのに、料金は7倍だった。

20070404 一旦、隊員連絡所へ、交通事故目撃
Millenium Height ビルに翻る国旗 J***事務所の窓から
ある官庁の建物から Great wall 中華食材店

 5時から荷物整理、8時過ぎにやっと一段落。まだストローを詰め込んだままのカメラモデルとレインボーボックス、プリンタのダンボール箱、それに衣類を入れていたプラスチックの整理箱、スーツケースをカウンターに一時預けてホテルをチェックアウトした。

 IT氏とともに、事務所に入って9時からTK健康管理員の講義を受けた。この講義の最後には、マラリア検査キットの実習をした。

 期限切れのキットを使わせてもらったが、水平においてつかうクロマトグラフィーだった。紙クロマトにたとえると、細長い長方形をしたキットの一番左に、展開溶媒を滴下する穴があり、その隣に血液を一滴しみこませる穴がある。血液をしみこませてから展開液を滴下すれば、液の移動とともに右側に向かって、血液が移動を始め、マラリア抗体に反応する抗体の抗体?があらかじめ線状に塗りつけられている場所を通過して右端まで血液は広がる。もし、マラリア抗体があれば、2〜3本の横線が現れ、抗体がなければ1本だけの横線が現れるそうだ。

 自分も血糖値を自己検査するための採血器で、親指の腹から1滴の血をとって、検査してみたら現れた線は1本だけだった。

 予防薬、もし検査で陽性だったときのために飲むスタンバイ薬(病院に着くまでの間に使う薬)なども見せてもらうことができた。  TKさんからは、総合ビタミン薬の錠剤を配布してもらった。

 10時半すぎにSM調整員、IT氏とJ***の車で事務所を出て、ペンタ・ホテル経由で隊員連絡所、通称ドミトリーへ向かった。レンズのある資材やPCの入ったスーツケースを荷台ではなく座席に置くために、ホテルからSMさんはタクシーを利用してくれた。

 ドミトリーでは、ドミトリー役員さんと元番頭さんの隊員が施設を一通り説明してくれた。停電の時の発電機の動かし方や給電を外部から発電機へ切り替える方法なども見せてくれた。断水時の水管理にもとても気を使っている様子だった。

 事務所に戻り昼食。白いご飯に、トマトソース、揚げたバナナに、カリカリの小さなチキンだった。

 午後は、公的な予定がなかったので、ドミトリーに戻ってからオス(OSU地区)まで徒歩で買い物に行くことにした。ドミトリーは事務所とOSUの丁度中間に位置していて、オスまでは歩いて35分だった。

 ドミトリーを出て10分も歩かない間に、交通事故を目撃した。自分から見て道路の反対側を歩いていた二人の女性達が、自分の少し先にいた、彼女達からは道路の反対側にいる知人に呼びかけられたようだ。そこで、二人の一方が、それに答えて道路に飛び出してしまい、近づいて来ていた警察の四輪駆動車にはねられてしまった。 彼女が道路に出てきてはねられるまでを全て見ていた。10mほどしか離れていなかったのに何もできなかった。車は減速していて、さらに急制動したので、女性は車の屋根よりやや低い高さまで上がって2−3mほど先に落ちた。彼女は直ぐに立ち上がって、車から出てきた警官達に大丈夫だとアピールしていたが、警官達はすぐに女性を車に押し込んで、大急ぎでUターンして行ってしまった。たぶん病院にいったのだと思う。女性は、見たところ外傷も出血もなかったのだが、とてもびっくりした。彼女に呼びかけた女性は、事故直後に同じ言葉を何度も叫びながら走り去ってしまった。道路には女性の靴と鞄が落ちていたが、近くの男性が拾っていた。

 その後、車に気をつけようと再認識しながら、オスまで歩き続けた。ついでなので、夕食はシスターズ、スープと焼きそばにしたが、ちょっと高価だった。  帰りも歩いてドミトリーに戻りシャワーを済ませて早めに床に着いた。

20070405 再びペンタ・ホテルへ
 ドミトリーは快適に暮らせる場所なのだが、自分一人のために折角空けてもらった3人部屋用の扇風機が壊れていて、汗を抑えてから軟膏を塗るのが難しかった。なんとかやりくりできないわけでもないが、ここで体調を壊してもいけないし、隊員達に気を使ってもらうのも申し訳ないので、夕方にはホテルに戻ることにした。

 この日の予定は10時からだったので、朝少し用事をすませた。まず8時少し前にタクシーでオスに向むかった。初めて相乗りになったが、一緒に乗っていたのは制服警官だったから良しとしよう。タクシーを降りてから、ペンタ・ホテルの隣にあるバークレー銀行のATMで日本の口座からセディを引き出した。ザンビアにもあったPLUSマークのATMと全く同じで、10万セディから60万セディまで10万セディごとに引き出せる金額のボタンがあった。とりあえず60万を引き出したが、となりの機械を使っていたガーナ人は4〜5回も続けて操作して、何ミリオンも引き出していた。この銀行のそばには縄張りを持った物乞いがいるが、対照的だ。

 引き出した60万セディが日本円でいくらに相当するかをチェックするためにシャープネットまで移動してインターネットバンキングの取引照会を開いた。今回は、60万セディで7940円だった。手数料は200円だった。もちろん交換レイトは決して良くないのだが、まだ銀行口座の手続きが未了で小切手が使えないから重要な生活手段だ。

 この割合だと1円が75セディ、1セディが0.0133円、15万ディで2000円といったところだ。

 ネットカフェでは、2月19日に振り込んだ海外旅行保険の証書やカードの件を問い合わせるメイルも日本に送った。

 9時少し前にコアラで買い物をして、ドミトリーに戻り、続けて事務所に向かった。

 10時からは現地のチュイ語の説明を約2時間受講した。挨拶だけでも1日では身に着けることができないと痛感した。復習を兼ねて一部をまとめてみると。

 マアチェ 又は メマ ウォ アチェ Good moring 相手が複数だと メマ モ アチェ

 マアハア 又は メマ ウォ アハ  Good afternoon         メマ モ アハ

 マアジョ 又は メマ ウォ アジョ  Good evening         メマ モ アジョ

これらに答えるとき

 相手が目上の男性なら ヤア アジャ

 目上の女性なら ヤア エナ

 子供なら ヤア オバ

 同僚なら ヤア ニア (ニアは兄弟、姉妹、従兄弟)

 ウォ ホー テェ セン? How are you?

 メ ホ イエ I am fine.

 ナ ウォ ンソ エ? And you?

 メンソ メ ホ イエ I am also fine.

 アクアアバ Welcome

 ダ イエ Good night response:ヨオー

 ナンテ イエ Safe journey (walk well)/Good bye response:ヨオー

そして最も大切なThank youは、メダ ウォ アセ (相手が複数だとメダ モ アセ)

 昼食は、IT氏とまた事務所横のガーナ食堂  J***広報誌のクロス***などを読だり、ホテルの予約をしたりして、イースター休暇前最後の公式行事である所属省庁表敬訪問まで時間をつぶした。

 14時半に、現地職員のクマ氏、それにPCインストラクター隊員2名とガーナ教育サービス(GES)のTED(教員教育部門)のActing Director(所長代理)を訪問した。省庁の訪問は我々が最後だったらしく、隊員も研修室にその2名しか残っていなかった。途中の道路は明日からのイースター休暇のために移動する車でずっと渋滞だった。

 Acting Directorは10分前まで世界銀行とシンガーポールからの派遣団と会議をしていたとかで、我々若輩達には余り時間を割かなかった。

 所長室から出ると、遠くからコーランが聞こえた気がした。ガーナは50%がキリスト教、15%がイスラム教と聞いている。スーパーマーケットでもムスリムとすぐ分かる服装の人を良く見かける。

 事務所に戻る途中にクマさんに聞いたところ、94年まではガーナの車は左側通行だったが、周辺国に合わせるために、その年に右側通行に切り替えたのだそうだ。

 事務所を、隊員2名と共にタクシーで出てドミトリーに戻り、再び荷造りをしてペンタホテルにチェックインした。

 ホテルに落ち着いてからIT氏と連絡を取った。IT夫妻は昨日ペンタ・ホテルを出て、近くのセントラル・ホテルに移られた。キッチンが部屋にあるので自炊できるとのこと。そこで、買い物をご一緒してからIT夫妻の部屋で夕食にしましょうということになった。

 まず、コアラの隣のラウンドアバウト(ガーナではサークルというそうだ)をわたって、中華食材を販売しているグレイトウォール(万里の長城)というお店に入った。日本酒(一升で3000円位)、刺身醤油、出前○丁、のり、キ○ーピーマヨネーズ、海苔、タクワンなどもちろん高価だがかなりの日本食材料もあったのでびっくり、前任地でソーメンのかわりに食べていた中国製の麺類も豊富だった。

 グレイト・ウォールを出て、となりの中華ファーストフードをチェックしてからコアラに入った。明日からの休暇のせいか、大混雑。駐車場も満車で赤と緑の旗を振りながら誘導している人は忙しそうだった。

 IT夫妻は、先日配属先提供の家を下見されたが、もう少し安心して住める家がないかしばらくお探しになるそうだ。それまではセントラル・ホテルでお過ごしになるらしい。

 かなり時間をかけたIT夫妻の買い物が終わり、途中、露店で自分はマンゴー、IT氏はアジの塩焼きを買ってご夫妻のホテルに戻った。

 日本から持参された炊飯器でお米を炊き、夕食をご馳走になった。

 シャワーを浴びながら二日分の洗濯をしたが、昨日の服は汗の発酵した臭いがひどかった。

20070406 イースター休暇初日、停電
 昨晩ホテルの自室で映画を見ていたら、いいところなのに10時半に突然テレビの画面が消えてしまった。どこを操作しても直らないからそのまま眠った。ところが、朝になってテレビもエアコンも動かないことに気がついた。照明は点くので、電気は来ていた。

 しばらくして、コンセントに電気が来ていないことが分かった。ガーナは世界最大級の人工湖であるボルタ川水系のボルタ湖にあるアコソンボ・ダムなどでの水力発電に電力を依存しているが、昨年の旱魃でダムに水量が激減し、慢性的な電力不足、計画停電、突然の停電頻発の状態にある。したがって、豊かな商店やホテル、集合住宅などにはたいていディーゼルやガソリンの発電機があり、停電と同時にそちらに切り替えている。(ザンビアのカリバ湖も世界最大の人工湖と言っていたな)

 フロントに行ってみると、冷房が効いて涼しかった。そこで、トラブルは自室だけだということがわかった。テクニシャンを呼んですぐに(Soon)直すから、と返答してくれた。9時前に頼んで、2回ほど催促に行った。回復しないので、昨日下見した中華料理のファーストフードを試したが、それほど安くはなかった。上海焼きそば4.8万だった。電気は、なんとか昼食から戻った13時頃に無事復旧した。冷蔵庫の軟膏が心配だったが、速く復旧してとてもよかった。(催促しないとどうだったんだろう)

 電気が回復してから、PCでこの三日間の記録を整理した。それと、昼食後にコアラで買ったプラスチックカップを切って、ザムコプターのパーツにできるか試してみた。まだ日本から着いていない荷物にザムコプター用の小さな部品があるが、今日買った70個で550円ほどのコップはちょっと高価だが有望だ。

20070407 アコソンボ・ダム
 IT氏は、海外赴任が長い。新しく海外に赴任してきた社員には、最初に観光などで任地を知る時間をとるように勧めていたそうだ。そこで、今回もアクラから運転手付きのレンタカーで日帰りできるアコソンボ・ダムとケイプ・コウストの見学を計画された。

 それぞれの場所で活動している隊員さん達を訪ねて、活動の様子を知ることも目的にしていらしゃった。7日にケイプ・コウスト、翌日にアコソンボの予定だったが、自分の疲れの具合から無理を言って日程を逆にしてもらった。また、日曜日のケイプ・コウスト行きへは、辞退させてもらった。

 この日は、予定より30分前に、IT氏のホテルにオペルのレンタカーがやってきたそうだ。日本人の経営する旅行会社からだったので、時間が正確だったらしい。8時に、ペンタ・ホテルで合流して、アクラから東に向かった。途中テマまでは、海沿いを走り、テマの魚市場をちょっとのぞいてから、アコソンボへ向かった。テマに、コンテナヤードはとても大きく、中国文字が書かれたコンテナが山積みされていた。海上には、たくさんの貨物船が見えた。海上輸送ができるこの国をとてもうらやましく思った。行程の後半は有料道路で(料金は5円位?)最高速度は80Km、ヒヒが道路を横切ったり、牛が放牧されたりしているのを見たが、大きな木はまばらなものの、緑が多かった。

 アコソンボに入ってから、二人の女性隊員(HIV対策)と合流し、ダムから流れ出ている川沿いにあるリゾートホテル?を見学した。

 続けて、二人のなみじのマーケットを見に行った。月曜と木曜のマーケット・デイ以外は、多少閑散としているそうだが、清潔で安心して買い物ができそうなマーケットだった。

 日用品は、衣類、食品、文房具、洗剤など何でも手に入るそうだ。アコソンボには、大きな織物工場があり、そこで生産されている生地も販売していたし、その布地で服を作ってくれる仕立屋さんも何件かあった。

 マーケットを出て、次にはボルタ・ホテルへ行った。ドライバーには到着した11時半から13時まで昼食と休憩を与えて、私達はテラスの席からダムと湖を見た。

 渇水で、計画停電をしているが、水量はそれほど減少していないように見えた。着任してから、かなり雨も降っているので、早く水量が回復するとよいのだが。IT夫人が4時半から作ったおにぎりと焼き飯、それと昨晩のポテトサラダを食べながらスタービールを飲んだ。

 彼女たちによると、地元の人たちはスポットと呼ばれるお店でビールなどを飲むらしい。ガラス瓶のデポジットが厄介だからだろう。

 ホテルを出てから、アコソンボの港を外から見た。ガーナ北部からボルタ水系を利用して物資を輸送するのに利用されているそうだ。

ガーナの南部は海に面している テマ港は国内最大級で広大なコンテナヤードもある
隊員さん達と合流してまずは川を見学 人手が入らなければ水の多いところは密林

 さらに、休日ではあったが、二人の勤務先と宿舎を外から見せてもらった。

 ところが、その直後から猛烈な風と雨になった。IT夫妻は、昨日グレイト・ウォール中華食材で購入した出前○丁などの日本食を彼女達にプレゼント。アクラに向かった。

 途中再びテマに立ち寄り、とても楽しみにしていた韓国食材店に行ってみたが、残念ながらイースター休暇中だった。

 その後は、アクラまで最高時速100Kmの高速道路を通って無事に戻った。外国人向けの高級スーパーであるマックス・マートでUPSやPCの値段をチェックした。PCや同じ仕様なら日本の2.5〜3倍の価格だったが、UPSは、性能は分からないものの割安であった。

鮮やかな色のトカゲも目に付く 隊員さん達なみじのマーケット
お米はすべて長粒種だった
手回しミシンの仕立屋さん、一着250円 赤は葬式、白と黒のパタンは礼服
ボルタ湖とアコソンボ・ダム 渇水で計画停電をしている水力発電所

 オスへ戻り、オペルに給油して今日の予定は終了した。

 夕食のために、出かけようとしたらアクラに入って小降りになっていた雨が再び強くなっていたので、頭の上に傘をのせて売っている女性から傘を一本買った。

 傘を開いて、シスターズへ向かったら、インスワ(もちろんザンビア名)がたくさん飛んでいた。大きさは、ザンビアのものより少し小さかった。アフリカの雨期の始まりを示す象徴のように見えた。レストランから帰る時には、もう飛んでいなかったから6時前後の時間にしか飛ばないのもザンビアと同じだった。

羽のとれたシロアリ
(ザンビアではインスワでした)
シスターズの店員さん達

20070408 イースターの日曜日
 今日はほとんどの商店が休みと思っていたが、ペンタ・ホテル周辺でも少し買い物ができた。以前に購入しているのだが、ドミトリーに置かせてもらっているので手元にない輪ゴムに、クリップ、それとビーズなどを買った。

 ホテルに近いスーパーマーケットのコアラは、アルコール類が無く、ビールはノンアルコールしか販売していない。今日買い物していて急に分かったのは、コアラはイスラム教徒が経営者だということだった。そういえば、肉売り場には、羊肉はあるが、ポークは無い!だから、アルコール類も無いのだ。

 お昼過ぎに派遣先になるウェズリー教員カレッジの校長に電話をしたところ、火曜日の朝のSTCバス(国営バス)でくるのが良いだろうということになった。

 ザムコプターの試作品を作って時間をつぶしてから、涼しくなり始めた夕方に、STCのオフィスまでタクシーでバスのチケットを買いに出かけたが、すでにしまっていた。帰りは一時間ほど散歩のつもりで歩いて戻ってきた。歩きながらアクラは少し汚いところもあるが、十分に大都会だと思った。

 夕食はIT夫妻にホテルに招かれた。おそば、アボガド巻きの手巻き寿司、サラダに、ソーセージとたまねぎの炒め物。とてもおいしくいただいたが、冷房のせいかお腹が痛くなってきたので9時過ぎに失礼した。

20070409 Happy Monday
 朝、シャープネットに出かけインターネットで銀行の残高を確認してからホテルの横のバークレー銀行のATMでセディを出した。銀行口座のほとんどはドルに換えてしまったので、円口座にはわずかな金額しかない。それでも、基準額を下回らないように注意しながら円口座からセディを出して当面の生活に使っている。まだ二週間位はスタンダード・チャータードの口座はできないだろうから。

 9時過ぎに昨日出かけたSTCのオフィスにタクシーで向かった。列に並んでいる人にクマシ行きのチケット売り場を聞いてから、1番窓口の列の後ろについた。窓口では9時のバスはあるが、7時と8時は満員とのこと。そこで、5時半発をお願いした。自分の名前とガーナの知人の名前に電話番号を聞かれたので、メモで渡した。クマシまで7.5万セディ(約1000円)だった。

 ホテルに戻ってから、レセプションの女性に、明日の朝発つので今清算できるかを確認した。OKだったので、セディで直ぐに支払いを済ませた。

 午後は、記録のまとめと荷造りをした。重要な荷物と軟膏は、IT夫妻の居室に預けて行く。

20070410〜13 Kumasi 任地見学国内研修
 朝、3時に起床してシャワーを済ませ、洗濯物をファンで強制的に乾かした。4時にホテルの外でタクシーを拾えるかチェックして、4時半にSTCのターミナルに向かった。Reporting time 5:00 というチケットだったので、それに間に合うようにするためだ。ターミナルにはもうバスが入っていた。車掌さん?にチケットを見せると窓口にそれを出せと言われた。窓口では新しい指定席券?と1万セディを戻してくれた。ちゃんと乗るお客にはその金額が戻ってくるらしい。Departure time 5:30 だったが、バスは5時に出発した。アクラ市内をしばらく走って、最初の停留所に着くと、そこで追加の乗客があり満席になった。

 早朝の出発だったので、空調がなくても涼しく、お腹が冷えないように注意しなければいけないほどだった。朝霧が道路の両側に漂う中を進み、バスは2時間ほどで最初の最後の休憩所に入った。アクラのターミナルと同様にトイレは有料だった。その後、片側交互通行で30分ほど待つことはあったが比較的順調に進んだ。道路の両側は緑に包まれていて、ところどころに高木があった。熱帯雨林を切り開いた道路だと実感した。ただし、昼が近づくにつれて、バスがゆっくり走り窓や天井からの風が入ってこないとバス内は蒸し暑くなった。クマシのSTCターミナルには11時25分頃到着した。もし、市街地の渋滞がなかったら、もう30分以上早く到着していたと思った。

 ウェズリー・カレッジの校長に連絡するとカレッジのバスで迎えに行くので15分ほど待って欲しいと言われた。バシを待つ間に、アクラへ戻るバスの予約券を購入した。カレッジのメルセデス製マイクロバスは12時頃にやってきて、サイモンさんというドライバーがすぐに自分を見つけてくれた。ベンツのバスは寄贈されたものだそうだ。

 彼の運転でカレッジに入り、まず自宅となる寮の建物に立ち寄った。女性の副校長が出迎えてくれた。自宅は、男子学生寮の建物の一部で、1階の二部屋だった。1部屋は3.5m×3.5mほど、それに水のシャワー室、洗面台、水洗トイレがあった。シーツをかけたベッド、引き出しの1つだけある学習机×2、学習イス、肘掛とクッションのついたイス×3、小さい学習机×2、冷蔵庫、プロパンガスのボンベ、ガスレンジ、包丁セット、まな板、グラスセット、30種類入り食器セットなどが準備されていた。窓は全てルーバーで、白いカーテンがかけてあった。どちらの部屋の天井にも大型のファンがつけてあった。副校長に感謝し衣類などをバッグから出してから、玄関とその外のバーグラードアに鍵をかけて、副校長と校長室に向かった。

 校長室は、正門に近いアドミニストレーションの建物の2階だった。校長、副校長、アカウンタントと挨拶した。あらかじめ途中まで作っておいた、ストローモデルをその場で組み立てて、校長に渡した。その他にザムコプターとザンビアNSCのCDもさしあげた。

 校長らは既に昼食を済ませていたのだが、自分のために昼食に招待してくださった。校長、アカウンタントとメルセデスのマイクロバスに乗って、チョップスティックという中華料理店に出かけた。お店でご挨拶したマダムは中国人だったが、マスターは日本人で元ボランティアだそうだ。


 2時からビショップと打ち合わせのある校長は、料理を待たずに退席されたが、アカウンタントと雑談しながら昼食をとることができた。

 カレッジまで戻る途中に、アカウンタントが、必要なものを買うようにというので、石鹸と殺虫剤(J&J製のRaid)を購入した。アカウンタントは学校のお金で、充電式の蛍光灯と延長コードを買ってくれて、家に戻ったら直ぐに充電を始めるように言った。

 自宅に戻ってから、シャワーと洗濯。少し昼寝をした。5時に日が弱くなってきたので、学生寮のあるあたりを散歩した。そのまま、学校の裏門から通りに出て、お酒が飲めるスポットがないかブラブラしてみた。

 タクシーなどがたくさん通る道から一本奥に入ると、子供がたくさん遊んでいて、すぐに手を振ってくれた。

 当地では、瓶ビールはスポットで飲むのが一般的だということだったので、安全そうな店がないか少し歩いたら、学校の直ぐそばに見つかった。  お店のマダム(Akonさん)とそのお母さん、Akonさんの息子さん達と雑談した。Akonさんはマラリアで頭痛があるそうで、明日は病院に行くと言っていた。

 この晩は、キャッスルとスターを注文した。帰りにアリーバのプリペイド・カードを裏門の向かいにある店で買おうとしたら、お店のおばさんが、店先に机とイスを出して小学生5人ほどに英語や算数を教えていた。

 階段を挟んで自宅の反対側は全て男子学生の寄宿舎(寮)なので、学生が起きている間は騒がしい。ルーバー窓は密閉できないし、新しく着けられた高窓は絶対に閉まらない作り方になっていた。学校の敷地内に放し飼いにされている雄鶏の鳴き声も相当なものだ。この家のバルコニーだと副校長が言われたところには、学生が並んで腰掛けるのでさらに騒々しかった。電池式の蚊取りをつけて安眠した。

 朝と夕食には、学生寮の間にあるダイニング・ホールの鐘が鳴る。この時期、一般学生は寮におらず、教員免許のない現職教員の研修と試験が行われているそうだった。だから、食器を持ってダイニング・ホールに向かう学生達は、経験のある顔つきをした、男性・女性だった。

 11日の朝、7時頃にゆっくり起床して身支度をしていたら、8時半頃に校長が訪ねていらっしゃった。その日からは、アクラに出かけると聞いていたが、一泊した感想を聞きたかったそうだ。前任地のコンパウンドの住宅事情を少し知っていたから、そこと比較すればとても快適な住居であることが分かるので、日本の一般的な住宅環境に比べれば、多少の不備があってもカレッジ側の配慮が身にしみるほどうれしいことを伝えた。

 ウェズリー・カレッジには米国人ボランティアが1名派遣されているので、彼女に挨拶しようと自宅を出た。彼女の職場であるリソース・センターへ入って見たが不在だった。教員の1名がコモン・ルーム(教員控え室)にいるかもしれないと同道してくれた。彼女はコモン・ルームにはいなかったが、その二つ隣にある校長室でちょうど校長と打ち合わせをしていた

 校長との面会待ちで並んでいる先生達を飛ばして、謝りながら入室し、米国人のウェンディーさん(白人)に挨拶。やはりNSCのCDを渡して、少し雑談した。

 今回は研修でクマシに来て、任地を見ることが目的であること、来週はアクラで開かれる理数科教員隊員と彼らのカウンター・パートによる研修会に参加し、その後クマシに戻ることを伝えた。

 この日は、クマシで購入できるものをチェックしようと、タウンに出かけることにした。自宅に立ち寄ってから裏門を出て、タクシーを拾おうとした。でも、近寄ってきたタクシーがラウンドアバウトまで行かないと空のタクシーは来ないよと言って去っていった。

 でも、偶然にAkonさんが病院に行くためにタクシー運転手をしている甥のマイケルさんを呼んだところに出くわした。停電用のバッテリーなどの値段をチェックしたいと彼女に伝えたら、マイケルのタクシーで一緒に行くことができた。

 彼女によると、クマシのポスト・オフィス周辺には電気製品を扱う店が多いということだった。


 結局、この日は午前中、危険のなさそうな場所を歩き回っておしまい。見た範囲でのクマシの商店は、どれも小規模だった。雑貨、食料、電気製品、衣類などの店が繰り返し現れるが、どれも品揃えが似通っていた。ルサカのハードウェア・ショップのような店が見当たらず、商品の専門性や種類も不満足だった。路地に入ると、秋葉原のパーツ店街のようだった。

 タクシーで自宅に戻ってシャワー、洗濯、昼寝。涼しくなり始めてから、散策。構内では、涼しいところに腰掛けて試験に備えて勉強している現職教員が目立った。裏門を出て昨日と違う方向へ歩き出したが、結局分かったのは歩いていける範囲には、日用品や生鮮食品の小奇麗な店は無い!とうことだった。

 裏門の向かいにあるガーナ風ファーストフード店で、ライス・ボール2個と魚の入ったスープを買って、Akonさんのスポットまで持って行きスタービールを飲みながら食べた。彼女のマラリアはあっと言う間に回復したようだ。日没になっても電気は点かなかった。彼女によるとクマシでは、3日置きに12時間の停電があるそうだ。

 自宅に戻ると充電式の蛍光灯が点灯していた。スイッチが停電になると自動的に点灯の位置になっていたためだ。電池を節約するために、買ってきたばかりのろうそくをつけた。

 12日の朝も急がなかった。起き上がってから、ルーバー窓のガラスに積もっている砂を拭いたり、便器やシャワー室のタイルについているPVAペイントを擦り取る作業をしたりした。その間にも自宅には学生のにぎやかな声が飛び込んできた。

 ボランティアの着任が決まってから、カレッジは建物の改修をしてくれたのだが、屋内塗装に使ったPVAは、NSCの自分のオフィスの内壁を塗ったのと同じものだ。ルーバー窓の上にはひさしはないし、窓は密閉できなので、雨季に雨が振り込むと塗装が流れるのは今から予想できる。

 2時間ほど、気がつくところの掃除と家具の移動をした。その後、午前中は校舎内を歩いて見学した。本来の学生は4月中不在で、現職教員のための授業と試験だけが行われているため、通常の授業を見学したり、実験室を調べたりすることができなかった。それでも、盲学校のスタッフが点字で試験を作っている作業を見学できた。試験は英文だそうだった。

 構内では、新しい図書館、実験室などの建設が進んでいて、国内で2番目に古いこの教員養成校で、施設の更新が順調に進んでいることを感じた。


 昼食にチョップスティックへ行こうとタクシーに乗ったら、ドライバーは英語を自分なりに解釈して話す?らしく、会話の行き違いが目立った。結局、目的地を見つけられずにカレッジに戻った。1時間近く乗っていたかもしれない。10万セディ払ってくれと言われたが、その半分も渡さなかった。

 そういうわけで、昼食は昨晩と同じ店でテイク・アウェイを頼んだ。カレッジが自宅に用意してくれていた鍋を持って行き、それに入れてもらって、自宅で食べた。

 シャワー、洗濯の後、昼寝をしていたらJ***事務所から連絡があった。24日に隊員と共に副大統領を表敬訪問するとのことだった。電話の後、アカウンタントのオフィスに行った。彼はいなかったが、表敬訪問のためにカレッジに戻るのが25日になると職員に伝えた。

 夕方、Akonさんを通じて明朝6時半までにSTCのターミナルに着きたいので、マイケルさんのタクシーをお願いしたいと頼んだ。渋滞が心配だったので、余裕を見て5時30分頃出発したいと話した。待ち合わせはカレッジの正門という約束にした。

 13日4時に起きて、最後の荷造りと戸締り(もちろん窓は全部閉まらない)をしていたらAkonさんから催促の電話があった。急げと言われても、約束の時間まで30分もある。それでも、慌てて自宅を出て、走って正門に向かった。ところが正門にはタクシーがいない。電話をするとスポットの方へ来いというので、再び走って裏門から出ると、門の直ぐ外に彼女とマイケルさんのタクシーが待っていた。甥に3万払ってやってくれと言われて、お礼を言って出発した。

 STCターミナルには6時半の Reporting に十分余裕を持って着いた。ターミナル内は閑散としていた。有料トイレに行ったり、指定席券との交換はどうするのかを職員に聞いたりした。交換はアナウンスがあるからそれからで大丈夫と言われた。

 今回は、Departure time の7時半を過ぎてもバスは来ず。結局7時50分頃到着、8時8分出発だった。クマシ市内は渋滞とは反対方向に走り順調だった。途中、行きとは別の休憩場で25分(ドライバーは Fifteen minutesと宣言していたけど)休憩をとった。アクラに近づくと渋滞がひどくなり。行きと同じように6時間かけて到着した。

 ターミナルからタクシーを頼み、セントラル・ホテルに行った。IT夫妻の部屋に預けてあった荷物から書類を出してバッグに移した。ペンタ・ホテルに再びチェックイン。シャワーと洗濯を済ませてからJ***事務所へ研修修了の報告と来週のワークショップ及び明日の補習校見学の打ち合わせなどに出かけた。

 事務所を出てタクシーを捜して歩いていると、IT氏から電話があり、夕食に誘ってくださった。タクシーでドミトリーに行き、明日補習校で見せるカメラモデル、レインボカメラモデルを積み込んでペンタ・ホテルに戻った。

 夕刻、セントラル・ホテルのIT夫妻部屋で、お互いの仕事や勤務先などの話をしながら夕食を取った。

20070414 補習校見学
 起きてから、カメラモデル、レインボーボックスの梱包を取り、内部をチェックした。どちらも像ができるトレーシングペーパーに少し破れがあったが、機能上は問題無しだった。今のところ1機しかないザムコプターのゴムを取り替えて試験飛行をするとしっかり飛翔した。

 8時半に事務所のKMさんとFKさんがホテルにタクシーで来てくださり、教材類を積み込んで補習校に向かった。

 アクラの日本人補習校は、J***が灌漑事業を支援した施設の一部を利用している。校舎にあたる建物には、蛍光灯の照明、黒板、移動式白板、エアコン、トイレ、折りたたみの机とイスがあった。通常は、国語2時間、算数2時間の時間割で9時半から12時半まで学習するそうだ。

 当日は、特別時間割にしてくださり、算数、国語の順で授業を行い、算数の前に自分の持参した教材をいくつか紹介する理科の時間を押し込んでもらった。日直のNM君司会による朝の会が終わってから、理科開始。小学1年生から中学1年生(日本の学齢であれば)に日本から持ち込んだ、カメラモデル、レインボーボックスを見てもらってから、ストローモデルの作り方を簡単に説明した。次週には、ストローモデルの実習をしたいと伝えた。

 理科の特別授業の後は、時間割が変更になったものの通常の授業。1年生から中1まで2〜3名の子供達に教員役の保護者やJ***関係者がついて細かく指導していたので感心した。

 補習校が終わってホテルに戻るともう2時だった。朝、ホテルを出る前に頼んでおいた衣類の洗濯とアイロンは、もう終わってクローゼットに戻っていた。クマシ往復で赤い砂がしみこみ自分では落とせなくなっていたのでとても助かった。


20070415 日曜日
 9時にIT夫妻の部屋に預けてあった薬、スーツケース、教材用の小物類を取りに行った。ご夫妻はセントラル・ホテルからペンタ・ホテルまで荷物を運ぶのを手伝ってくださった。歩いて5分ほどの距離だが、湿気が多いので、それほど陽射しが強くなくても、かなり汗をかいた。

 荷物を部屋に入れてから、ご夫妻とオス内を少し散策した。

 10時過ぎに自室に戻り、工具類などの整理とトレーシングペーパーがしわになっていたレインボーボックスの修理をした。

 中華のファーストフードを食べてからクマシ研修と今日までの記録を打ち込んだ。夕食はIT夫妻のところで今日もごちそうになった。中国麺をそうめん風にして食べたのがおいしかった。

20070416 教材研究Workshop

 今日から4日間の予定で、アクラのSRC(National Science Resource Centre)とJSS(Junior Secondary School)にて数学と理科の実験器具を研究する研修会が開かれる。主催は隊員さん達で、6名のガーナ人教員に参加した。最初の二日間はRSCが会場、名前が前任地と似ているので愛着を感じるとともに、2004年8月に英国と日本の支援でできた施設をうらやましく思った。実験器具や薬品も充足している新しい施設だが、残念ながら管理や活用はもう一息と思ってしまった。

 8時40分にSZシニア隊員がホテルまでタクシーで迎えに来てくださったので、カメラモデルやいつもの小道具を積んで出発。歩いても行ける近距離だが、荷物が多いので助かった。

 9時から開会した研修会は、まず数学2グループ、理科4グループに分かれた。それぞれ2〜3名の理数科教員隊員にガーナ教員1名が加わっていた。今日のうちに実験器具の案を作り、材料を購入し、実際に製作、明日は教案の準備、最後の二日はJSSに出向いて模擬授業とその検討だ。  自分はグループには属さなかったので、順にグループの活動を見学したりSRCの設備を見たりしてすごした。

 研修会から戻り、シャワーを済ませたら、ホテルの自室のある一角では、照明への電気がストップした。コンセントからは電気が取れるたので、生活には困らなかったが、ちょっと不便だった。

 その後、シスターズへ中華料理を食べに行こうと出かけたら、建物の外に馴染みになった店員が立っていて挨拶してくれた。でも、彼女は今日お店を辞めたそうだ。退職金も何の保障も無いらしい。小規模なビジネスセンタを始めたいと話していた。

 夜、Virginia TechのCampus shooting 報道をCNNで見て暗い気持ちになった。

20070417・18 研修会続き
ガーナ初のストローモデル ドドア中学校
 研修会二日目は、教材作りを各グループが進めた。お手伝いできるところは、ちょっとだけ手伝った。午後、少し時間をもらってストローモデルなどを紹介した。

 三日目には、アクラから車で1時間ほどのドドア中学校(JSS)で、午前中模擬授業が行われた。図書館で3グループ、2年生の教室で2グループ、そして測量のグループは外で活動した。

 各グループの説明を受けていた生徒達は3〜5名ほどの少人数だったので、説明する側も聞く側も丁度良い人数だったようだ。各グループの説明は、数回ずつ行われていたが、徐々に分かり易くアドリブが加えられていくのが分かって興味深かった。しかし、10時を過ぎる頃から暑さと湿気で消耗してくるのが感じられた。それに比べて、生徒達はなんて元気なんだろう。

 午後は、SRCに戻って最終日のための準備が行われた。

20070419 Workshop 最終日

 昨日と同様にドドア中学校に出かけて模擬授業が行われた。隊員さん達は少し疲れ気味のようすだったし、風も弱く暑さが答えた。でも、北部のサバナ地帯で活動している隊員は、涼しいと言っていた。

 模擬授業の片付けを終えて、J***の車でアクラに戻る途中、車体左後方から、連続的にドラムを速く弱く叩くような音が聞こえてきた。ドライバーはすぐに車を右側に寄せて停車、左後輪のパンクだった。買ったばかりと聞いていた新車で、日本製のダンロ○プタイヤだったのに、何か悪いものの上を走ったのだろうか、ドライバーを手伝ってタイヤを交換し、無事にアクラに着いた。

 午後は、グループ毎のまとめと全体討議。ガーナ教員からはアラウアンス(手当て)について意見があった、ガーナ国内でのワークショップの手当てや期間中の食事はザンビアと同じようだ。自分から前任地の事情を説明し、日本では研修に参加する側が自己への投資として参加費を納めることを説明した。

 最後に会のまとめの講評をする機会を与えていただいた。朝から原稿を作っておいて読み上げただけだったが、拍手を受けることができた。着任直後に、ガーナの教育事情の一端がわかるこのような研修会への参加機会を与えてくださった関係者に感謝したい。

 夜は、隊員さん達の打ち上げに参加した。オス、ホテルから歩いて5分ほどのソウルという韓国料理店だった。定番の韓国料理の他に、寿司や豚カツまで食べることができた。

20070420 理数科教員会議
 午前中に事務所提出用のこまごました書類を作った。クマシの住居の間取り図、生活圏の図などであった。それと先週の任地調査報告をつくっていたらお昼近くになってしまった。

 タクシーで事務所に行き、TH調整員に書類を提出した。その後は、理数科教員隊員の定例会議を見学した。定例会議の後には8月末を予定しているホリデイ・スクールの打ち合わせにも出席した。タマレで行われるこのホリデイ・スクールでは普段の授業では体験できない理科の実験や、遠足、種々のアクティヴィティを参加する生徒に体験させたいそうだ。今日も隊員達の意欲を感じることができた1日だった。

 夜は、明日の補習校で実習するストローモデルの準備をした。

20070421 補習校見学

 5時からストローを切る作業を8時半まで続けた。KMさんがホテルまで迎えに来てくれたので、タクシーで補習校に出かけた。停電だったので、冷房、照明無し。子供たちの集中力があるうちに国語を進めたいということで、国語、国語、算数、算数、理科の特別時間割になった。

 半分ほどの学年は、屋根のある廊下へ机とイスを持って出て、風のあるところでの勉強だった。  11時45分から45分間の時間をいただいて、ペットボトルロケット(空気圧で飛ぶロケットだと説明した)と、ストロー、クリップ、炭酸用PETボトルでできる浮沈子、ストローモデル製作の実演や指導を行った。暑い中、子供達はよくがんばってくれた。でも、小学校低学年には正二十面体は少し難しかったし、時間も足りなかった。

 午後は、NKさんのお宅へ移動して、フライドライスとチキンのテイク・アウェイを食べてから、補習校での指導法などについて意見交換があった。2回しか学校を見ていないのにと思いながら気がついたところをお話した。

 YNさんの車で、ホテルまで送ってもらうともう3時だった。残っていたワインを少し飲んで、洗濯をして入浴。そのまま眠ったら朝になっていた。

20070422 ウイルス定義ファイル更新
 6時半に自分のPC(二台中一台だけだが)を持ってシャープネットまで出かけた。まず、アリーバのプリペイド・カードを買ってから、自分のマシンをつなぎたいというと、ケーブルがあるからつなげば直ぐに使えるとのことだった。その通りにするとウイルスソフトの自動更新が始まった。ほぼ一ヶ月ぶりにウイルス定義ファイルなど更新できて一安心した。来客は10名ほどだったので、更新に十分な通信速度が確保できたのかもしれない。

 メイルを確認したり、送信したりすることもできた。

20070423 月曜日
 6時にもう一台のマシンをシャープネットに持って行って、ウイルスソフトの自動更新などを行った。あと16日でウイルスソフトのお試し期間が切れるが、予備のマシンなのでクレジット・カードで支払いしてソフトを購入するかは、クマシのウェブ環境をチェックしてからでもいいような気がする。

 9時過ぎにスタンダード・チャータード銀行のオス支店に歩いて行って、トレベラーズ・チェックの換金をお願いしたら、旅券が無ければだめだと言われた。旅券は滞在ビザ取得のために役所にあり、先週戻ってくる予定だったが、まだだったので、この日は換金できなかった。

 がっかりしていてもしょうがないので、これも歩いて行ける距離にあるアカイ病院へ出かけて腸チフスの予防接種を受けた。3階のワクチン・センターで申し込みをした後、2階で支払いをし、その領収書を3階で見せ、待っていると呼び出してくれた。一回使い切りのワクチンとシリンジと針のセットになっていた。清潔な処置室で注射も痛くなかった。この接種は3年間有効だそうだ。32万セディ(4300円位)かかった。学校の先生の初任給のほぼ半分弱の金額。そのせいか、予防接種に来ていた人々はどれも小奇麗な服装だった。

 お昼少し前にJ***事務所に出かけて、旅券がいつ戻ってくるか、小切手帳はいつできるかを質問した。3月末に着任した23名の隊員、それと2名のSVという大勢の手続きをしているので時間がかかるのかもしれない。いずれもこの後の生活に必要なのでクマシへ戻る予定を25日から26日に変更することにして、運転手付きレンタカーをお願いしていた旅行社のヨシケンさんに連絡した。カレッジの校長にはSMSで事情を伝えたところ、すぐに"OK"とだけの返信があった。

 2時頃、J***事務所から歩いて隊員連絡所へ行った。そこに置きっ放しにしていたプリンタと貸与の拡声器及び、浄水器をタクシーでペンタ・ホテルまで運んだ。

 夜、久しぶりにセントラル・ホテルのIT氏のお部屋で夕食をごちそうになった。IT氏は週末、体調を崩されて休養していらっしゃったそうだった。そうめん、白身魚の塩焼き、豆腐料理、果物など。いつもありがとうございます。

20070424 副大統領表敬訪問は延期
 ここ数日そうだが、朝最も水が必要な時間にペンタ・ホテルは断水する。顔を洗ったり、トイレを使ったりするのはペットボトルに汲み置きした水。数日前に、お掃除をしている女性に日本だとホテルに値引きを交渉するけどと言うと、ガーナではそれは無理との返答だった。

 IT氏によると、セントラル・ホテルでも空調が故障したり、蛇口の給水がお湯だけになったりするトラブルがあったそうだ。当地では、借家に入るなら二代目の借家人になるのが良いとも聞いた。新築の貸家に入る初代の店子が家の勝手の悪いところを修理しながら住むかららしい。

 事務所に出かけると、ガーナ外務省発行の身分証明書を受け取ることができた。この日は11時事務所集合で、まずバスで日本大使館に行って新隊員達とともに表敬してから、Castleと呼ばれる海沿いの大統領府?に移動する予定だった。大使館訪問が終わってから、Castleへ移動し会議室で待機していた。しかし、副大統領が急な来客と会っているので、表敬は延期と伝えられた。期日は明後日の木曜日と伝えられた。そのため、カレッジの校長と旅行社のヨシケンさんにアクラを出るのは27日の金曜日になると連絡した。

 ホテルに戻ってから、歩いていけるチップ・トップ中華料理店へ行ってテイク・アウェイを頼んだ。それほど安くはないが、量が多かった。しかも、辛味がきつくないので助かった。(結局この昼食は、翌日の朝と、昼の三回分あった)  食後に、身分証明書を持って再びスタンダード・チャータード銀行のオス支店へ行った。今旅券が役所にある事情は理解してくれたが、この証明書ではトラベラーズ・チェックの換金できないと言われた。

 夕方、IT夫妻が中華のテイク・アウェイを試したいと電話をくださったので、お昼に行ったチップ・トップをお勧めした。3人でお店に入って、店内で食べることにした。注文を済ませた後に、マダムがやってきて、日本のお客様には麻婆豆腐と餃子をお勧めしていますと言われたので、注文の一部をキャンセルして麻婆豆腐を頼んだ。焼きそばは辛くなかったが、エビのチリソースと豆腐はやっぱり辛かった。

20070425 物故隊員墓参と表敬訪問
Castleのゲイト 奥に見えるのが国会議事堂

 8時半に隊員連絡所(ドミトリー)集合で、物故隊員墓参にバスで出かけることになっていた。ガーナへの隊員派遣は今年で30年になるが、不幸にして活動中に4名が他界された。3名は交通事故、1名はカヌーでの事故だそうだ。

 ドミトリー内で出発を待っていると、副大統領への表敬が本日3時半からとの連絡が入り、3時にドミトリー集合と通知された。

 墓地へ移動して、まずお墓の周囲の掃除、草むしりをした。調整員さん達は、お線香も準備していらっしゃった。物故隊員の他に3名の日本人の墓石もあった。

 バスがドミトリーへ戻ってから、隊員に同乗してタクシーで事務所へ行った。毎水曜日の昼にスタンダード・チャータードの行員さんが事務所に来て、引き出しや預金の手続きをしてくれるので、それを利用するためだ。まだ時間があったので、手持ちのトラベラーズ・チェックの一部を預金するためのレターを事務所のPCで作って印刷した。デポジット(預金)用の用紙を行員さんが持っていないときに備えるためだ。

 事務所の1階(イギリス式なので日本なら2階)には、日本から送付したスモール・パックが追加で届いていた。これで、出国前後に送付したり送付してもらったりした15個がすべて無事ついた。どれも開封されていたが、無くなったり、壊れたりしたものはなかったのでとても安心した。

 4階のJ***事務所(このビルの1階の一部と4階全部が事務所)へ上がると、まだ旅券も戻っておらず、小切手帳もできていなかった。けれども、出張してきていた銀行員さんからT/Cをドル(1度に200ドルまで)に換えられたし、預金することもできたのは幸いだった。預金用のレターは準備しなくても大丈夫だったようだが、デポジット用のストリップに行員さんが書き写すのに役立っていた。

 医務室?でTH健康管理員に、腸チフス予防接種の清算書を提出した。あわせて、マラリアの予防薬のクロロキンとパルドリン、それと追加の虫除けスプレーを出してもらった。クロロキンは週一回2錠ずつ、パルドリンは一日一回1錠ずつ飲む。注射後1週間たてば飲み始めてかなわないそうだ。

 ホテルに戻って着替えをして再びドミトリーに向かった。バスで移動して予定時刻前にCastleに入ったが、会見室でかなりの時間待機した。

 副大統領が入室時には全員起立して挨拶。全ボランティアに副大統領が握手してから着席だった。日本大使の挨拶、ボランティアの自己紹介、副大統領の話と進み、最後には集合写真を撮った。(セキュリティでもめるのが嫌だったので自分は写真機を持ち込まなかった)全ての隊員が現地語で挨拶していたのにとても感心した。それに比べて、自分は"私は新しい言語を覚えるには年を取りすぎています"とことわってからから英語で挨拶した。とても、気さくで清潔な印象の副大統領であった。

 表敬訪問を記録していたAV機材は、どれも日本ブランドの最新型だった。ガーナでは国の中枢に居れば先進国と同じだと感じた。

20070426 小切手帳
 明後日クマシに移動する前に、ホテルの清算を済ませた。いつも支払いの後に3種類の領収書をくれるのだが、前回の領収書には滞在期間が書いてなかったので、それを追加で書いてもらった。3種類のうち一番りっぱなのが15%の付加価値税(VAT=value added tax)内訳が分かるものだ。

 クマシの自宅は、砂埃が入り放題なので、衣類やPC類を埃から守る密閉できる箱が欲しいと思っていた。掃除のおばさん達に相談したら、マーケットで買えるとのこと、でも聞くところによると混雑しているし、アクラは暑いので自分では行けないと話した。そうしたら、買ってきてやると気軽に提案してくれた。そこで、絵を描いて、25cm×35cm×50cm位のプラスチックのできれば透明な箱と、洗濯紐、室内で使うサンダル、埃避けにつかうプラスチックの透明なシートの買い物を頼んで、お金を渡した。

 お昼少し前に事務所に行って、ホテル滞在費の清算書類を調整員さんに提出した。KDさんが13時半に銀行へ小切手帳を取りに行くというので、お帰りになるまで事務所の1階で待つことにした。本を読みながら待っていて、現地スタッフの方が見ているTVに目をやると、2時のGTV(もちろんガーナTV)ニュースで、昨日の表敬訪問の様子が放送されていた。SB調整員やIB隊員などがアップになり、日本大使の話、隊員の現地語での挨拶や歌、副大統領の話が流れた。最後に集合写真を撮るところまで放送されたから全隊員の姿が画面に現れたと思う。

 4時半になってKDさんが戻って来られた。ドミトリーで手帳を隊員に配布していてこの時間になったそうで、自分の小切手帳はドミトリーで預かってくれているとのこと。そこでKDさんから業務費を受け取った後、ちょうどドミトリーに郵便物を運ぶところだったSBさんと一緒に公用車でドミトリーに向かった。

 無事に、小切手帳を受け取ってから、ドミトリーにいらっしゃったIT夫妻と共に早めの夕食に行くことにした。ご夫妻は、この夜遅く米国に向けて出発される。IT氏が立ち上げた米国工場の20周年式典に参加されるためだ。1週間ほどでガーナに戻られるのだが、アメリカで日本食を買い込んできますとおっしゃっていた。

 いっしょに、タクシーでペンタ・ホテルまで戻りおばさんが買ってきてくれた箱などを受け取った。ガーナ製のプラスチックの箱は、30cm×40cm×60cm少し密閉度が足りないが、とてもしっかりしていた。大満足であった。お礼に少しお金を渡した。

 夕食は久しぶりにシスターズへ行って、豚肉とキノコと卵の炒め物などを食べた。

 7時少し前にヨシケン旅行社のTCさんがホテルまで来てくださり、レンタカー代と私用旅行代金を小切手で支払った。

20070427 クマシは大雨
 6時45分ころシャープネットへ行ってウェブサイト更新をしようと思ったら、この形式のファイルは有料サービスでなければ受け付けませんとメッセージが出たので更新は止めた。いま使っているウェブサイトの契約は以前有料で使用していたのだが、代金の引き落としができませんとメイルが来てから自動的に無料サービスへ移行している。最初に契約したクレジット・カードの有効期限が切れて、新しい有効期限のカードを通知していなかったからかもしれないが、理由は分からない。

 8時少し前にレンタカーがホテルに来た。ドライバーは、アコソンボへIT夫妻と行ったときのジョーさんだった。部屋から荷物を一つずつ出して、車に詰め込んだ。トヨタの四輪駆動車で荷物が沢山積めたのでラッキーだった。

 事務所に寄って、置きっ放しにしていた9個の郵便物を積み足し、アクラを出るべく出発した。しかし、工事区間の連続で道路事情が悪く、アクラを出るまでに時間がかかった。結局クマシに入ったのは2時半頃だった。

 片側交互通行の工事区間では、待っている車にたくさんの物売りがやってきたが、アルマジロやアフリカマイマイ、それに小型のシカやその毛皮まで販売しているのにはびっくりした。

 ジョーさんは、クマシのことは良く知らないので、クマシ在住の弟を電話で呼んで案内を頼むことにした。まず道を聞きながら私の昼食のために車を中華料理のチョップスティックへ向けた。自分だけ昼食をとっている間に、彼は弟と合流した。レストランを3時15分頃に出たのに、クマシ中心部の大渋滞のためカレッジに着いたのは4時だった。最初の予定では、クマシに着いたらレンタカーで買い物を考えていたが、雨が降り始めたこともありそれは諦めた。

 カレッジでアカウンタントに挨拶した。月曜にスタッフの打ち合わせがあると教えてもらった。校長はケイプ・コウストとアクラへ出張で不在だった。

 小降りの雨の中、荷物を自宅に入れた。その後、レンタカーを給油に近くのTotalのスタンドへ行きディーゼルを満タンにした。燃料代は31万ドルと表示されていたので、支払えないと店員に言ったら。31万セディでよいと言ってくれた。ジョーさんには、帰りの燃料代として、同額のセディを渡した。

 自宅に戻ってから室内を見ると、全てのものに砂が積もっていた。ベッドのある部屋の方が、窓を閉められないのつくりなので、埃が多かった。とりあえず、イスのクッションをはたき、シーツを二枚洗濯した。衣類の洗濯をしてシャワーを済ませてからスポットに行こうと思っていたら、雨がだんだん強くなってきた。そして、予想通り停電。充電式の蛍光灯と懐中電灯で少し読書をしてから眠った。

20070428 土曜日
 朝、雨は上がって電気を復旧していた。荷物整理を少しずつやりながら朝食を取った。学生が休暇中なので、しずかな朝を迎えることができた。買い物リストを作って11時頃にSTCターミナルへアクラ行きのチケットを買いに行った。5月4日の9時半発なので、到着は4時頃になるのだろうか。

 ターミナルから歩いて出て、近くにあったPC店で、HPのインクジェット用カートリッジをチェック。欲しかった131番、135番などが販売されていて安心した。価格は日本より4〜5割高か?

 リストしておいたモップ、モップ絞りつきバケツ、フィリップスの電気アイロン、アイロン台、サージ・プロテクタ付きの延長コードを買った。

 自宅にタクシーで戻り、シャワー。でも水が少しずつ弱くなっていた。それに冷蔵庫が動いていない。よく見ると、冷蔵庫へつないであった延長コードのサージ・プロテクタが黒く焼けていた。停電が復旧した時に流れた過電流で壊れたのだ。そこで、買ったばかりの延長コードと交換した。また、予備の延長コードを買いに行かなくてはならない。

 高い棚が一箇所あるので、そこを掃除して、衣類をしまうつもりで掃除を始めた。でも、何回拭いても汚れが落ちなかった。一段落して、次に床掃除をしようと思っていたら、断水になったので、大きなバケツに貯めてある水はあるのだが床掃除は後にすることにして、荷物をすべて開封して整理し始めた。

 本棚を寝室側(ベッドがあるから)へ移動して、それをポリエチレン・シートで多い、磁石で閉じられるようにした。本や工作用具などをそこへしまった。

 断水が復旧してから床掃除をして、洗濯、シャワーを済ませると7時になっていた。

20070429 日曜日
 6時頃起きて、雑炊とカッヌードルを食べた。食後に、マラリア予防薬のパルドリン1錠とクロロキンを2錠飲んだ。  8時半頃、裏門を出てすぐのお店で、洗濯用洗剤、トイレットペーパー、ろうそくを購入。一度自宅へ戻ってから歩いてマーケットへ出かけた。湿気があり汗をかいたが1時間ほどでマーケットへ到着。日曜日だったが活況だった。パスタ、あげパン、ガーナ風の麺と魚のフライにゆで卵のテイクアウェイを買って、タクシーで戻った。

 早めの昼食をとり、洗濯、シャワー、昼寝。1時半頃から、また荷物整理。その後、ふにゃふにゃのストローを丈夫にする方法を考えてから、ストローで輪ゴム鉄砲を作った。

20070430 月曜日
 今日は、教員の打ち合わせがあると聞いていたので、コモン・ルームに7時に行った。一人だけ先生がいたが、校長が戻っていないので予定は分からないとのことだった。

 コモン・ルームに横にあるPC実習室に入ってみた。40台ほどの中古DELLが並んでいて、担当者がメイテナンスをしていた。インタネットが使えるというので試して見たら日本語も表示された。でも恐ろしく遅いのでウェブサイトをアップするのには利用できないようだ。画面の解像度は800×600、HDは6G、OSはXPproだった。この仕様なら文書作成や表計算には困らないと思う。自分のマシンもつなげられると聞いたので部屋に取りに戻った。でも、学生が来て掃除を始めたので、しばらく使えないと言われた。結局、この日の自分のPCの接続は諦めた。コモン・ルーム前に視覚障害者担当の先生がいたので打ち合わせのことを聞いた。掲示が出るから、それを見て集まればよいと教えてくれた。

 構内をぶらぶらしていたら、サイエンス・ティチャーかという学生が寄ってきたので、そうだと答えた。彼女はこれからサイエンスの授業があるというので、見物させてもらうことにした。教室では当番らしい女生徒が口をハンカチで押さえながら掃き掃除をしていた。

 しばらく待っていても担当の先生がこないので、授業をしてくれと言われた。そこで20名ほどの学生を相手に、ザムコプターを紹介したり、ザンビアでの活動、それと漢字や日本語について40分ほど雑談したりした。日本人の名前の意味を教えてほしいと学生が出してきた名前は、イナモト、ナカタ、スズキなどだった。

 9時にコモン・ルームに行ったが掲示は出ていなかったので、部屋に戻って買い物リストを作り出かけることにした。STCターミナル近くでタクシーを降りて、店を覗きながらぶらぶらした。この日に購入できたのは、殺菌用に使うブリーチ、消毒用アルコール、鏡、温度計付き置時計、瞬間接着剤、A4用紙500枚、封筒、HP131インクだった。Japan Electricという店の店長は8年間日本にいたそうで、日本語で話しかけてくれた。

 カレッジが入居前に買ってくれていた布巾をハンカチがわりに持って行って、それで汗をふいたり、陽射しをさけたりしたので、以前の買い物より少し楽だった。

 おそらくクマシで一番大きいメルコムというスーパーに入ったが、日本の安売り店のドン○ホーテのような狭さに物と来客が詰まっていた。冷房してあったのが幸いだった。ただ、この店での買い物のしかたが複雑で分からなかったので何も買わなかった。

 部屋にタクシーで戻りまた水浴び、洗濯、荷物整理。プリンタを出して、NSCのオフィスでやっていたようにその箱を本体の埃避けに使えるようにした。買ってきた封筒で報告の郵送準備をしたが、中身は24日に締めたものだ。手持ちのプリンタは大量印刷用ではないので、次回の送付はどこで印刷するか悩んでしまう。

 夕方、雲行きが怪しいので傘を持ってスポットへ行った。途中から大雨。いつも屋外にテーブルとイスを出して飲んでいるが、店内に全員で避難した。
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